2015年4月7日火曜日

文盲の民衆に文学を伝えたさすらいの琵琶法師



  平家物語は、源平争いの激動の動乱期を経て、その史実をもとに、当時の和魂漢才に溢れた知識人が、拾い集めた事実を基に脚色し、その後幾人かの作者が関わって増補して完成されたものであることは疑いの余地はないようです。

 平家物語は、純粋の歴史書ではなく文学書であります。これを文芸琵琶として盲目の琵琶法師に与え、職業の糧にしました。創作期(平家没後30~80年位)の時代、琵琶法師が各地で聴衆に語り、色々と足りないエピソードを源平のいくさに関係のある当人や子孫から拾い上げ、補充されていったことは充分考えられます。
 
 盲目の琵琶法師は、法師の恰好はしていますが、僧籍にあるものではない。諸国を流浪しながら平家の栄耀栄華と没落の物語を語り歩きました。寺社の祭事など人の集まるところではむしろを敷き語りました。また地方では、門付けや有力者の家を訪ねてお布施をもらいました。

 現代人として、忘れ勝ちなのは、鎌倉・室町期の聞き手の一般大衆は、殆ど文字を知らない文盲であったということです。当時の下級武士も多くは文字が読めなかった。当時の聴衆、特に庶民は、耳から物語を仕入れました。現代と違って「読み平家」ではなく「語り平家」の時代でした。平家の原作者は、晴眼で漢詩文に精通した卓越した最高知識層の僧侶や貴族と言って良いだろう。徒然草の伝える、信濃前司行長や作者の一人と目される葉室時長などは当時のそんな人たちでした。

 琵琶法師が、平家の一節、中国の故事を引いた難解な漢文の一節を語るとき果たして一般民衆が、それをよく理解し得たかと言えばはなはだ疑問だ。それでも、聴衆は少しも苦にしない。韻を含んだ漢文体は、その場の語りの雰囲気で前後の情景を盛り上げる効果があり、聴衆はそれをくみ取れれば充分なのです。

 それにしても、感心するのは琵琶法師達は、よくこの難解な長文を暗記したものだと感心します。でも盲目の人には、晴眼者と違って、とぎすまされた記憶才能を宿している人が多い。死者を呼び寄せたり、神懸かりになる霊能者といわれる人は、昔から盲目の人が適しているのでしょう。

 詳しくは連載予定の「琵琶の歴史16:琵琶法師 」を是非ご一読くださいませ。