――その武帝のシルクロード開拓の為に、貴重な情報をもたらした冒険家、張騫(ちょうけん)や後漢の求法僧、法顕(ほっけん)それに多大の仏教経典を持ち帰った玄奘(げんじょう)などもこの道を往還しました。特に張騫は、中央アジアの情報だけでなく、西域の音楽も古代中国にもたらしたことで知られています。
東から西へ絹が流れたシルクロードは、逆に西の方からはガラス製品など西洋の工芸物や西域コータンの玉(ぎょく)と共にエキゾチックな音楽・舞踊が入ってきました。シルクロードを往来し、その交易を通じて流通の役割を担ったのは、主に中央アジア出身の商人、深目・高鼻のイラン系のソクド人達でした。
まさに、シルクロードは、彼等の駱駝の隊商と共に、ペルシャや西域の楽人、芸人、碧眼の踊り子・胡姫達が長安を目指した道でもあったのです。
民族色豊かな西域の音楽は、長い年月をかけ、古代中国に流入し、唐の時代に頂点に達しました。西域楽が人気が高く古来の俗楽に編入されて中心的存在でした。その頃の胡風の流行を伝える旧唐書によれば、「太常の楽は胡曲を尚び、貴人の御饌は、尽く胡食を供し、士女、競うて胡服を衣(き)る」とあります。詩人王建は、「涼州行」で「洛陽、家々胡楽を学ぶ」と詠じているほどです。
大唐の都、長安(今の西安)や副都市、古都の洛陽での「胡風」への心酔ぶりが、いか程のものであったかがしのばれます。
特に盛唐時代の玄宗皇帝は、自ら指導に当たり、宮廷音楽はその極に達しました。 この「胡風」というのは、西方のペルシャ系のものだけでなく、西域のオアシス国家で創造された文化も当然含まれています。
オアシス国家は、タクラマカン砂漠を囲んで点在していますが、その中でも、西域音楽の代表として、西域の玄関口、敦煌(トンコウ)、天山中道の亀慈國(クッチャ)、天山北道にあったオアシス国家で、高昌國(トルファン)のその盛んな様に触れてみましょう。
砂漠の美術館、敦煌は、莫高窟(ばっこうくつ)の壁画でその名を知られています。
敦煌は西の玄関として栄え、西域から入ってきた仏教の翻訳の地でもありました。その南のはずれに位置する鳴沙山東麓の莫高窟内の極彩色の仏や天女達・・・。
千年以上の長きにわたり、工人や絵師たちが、石窟を刻み、仏を彫り、壁画を描写しました。それを見ると、いかに当時の西域地方では、仏教興隆に加え、多岐にわたる楽器で構成された管弦楽が盛んであったかが忍ばれます。
音楽資料としては、特に有名なものが莫高窟112窟の阿弥陀浄土変相図です。中唐のころのものと言われていますが、須弥壇の仏たちが舞楽を鑑賞しています。奏でているのは、横笛・立竪箜篌(たてくご:ハープ)など数多の楽器に混じって、元咸や琵琶が中心をなしており、中央では舞女が五弦琵琶を背面に担いで曲弾きをしています。この壁画を見ていると、白氏の楽府(がふ)にある、「胡旋舞」を連想します(後述・長安の街並みと音楽探訪参照)
その天女たちが奏でている姿や管弦楽の合奏風景に目を凝らすと、たなびく白雲の切れ間から、今にもはるかな天上楽の調べが聞こえてきそうです。
今日に伝わる我が国の宮廷雅楽と比較して眺めてみるのもまた楽しい見方かも知れません。
亀慈(きじ:クッチャ)と亀慈樂
西域で、音楽の最大の中心地と言えば亀慈国(庫車:クッチャ)です。亀慈は、敦煌よりもはるか西に位置します。今は中国の陝西省でウイグル地区内ですが、最近、悲しいかな民族紛争で有名になっているところです。
前述の三道のうち、天山の南麓を通る天山南路②の途中にあり、タクラマカン砂漠のほぼ真ん中(少し右寄り)の北に位置します。インド求法の旅で、西域地方を往復した三蔵法師・玄奘(さんぞうほうしげんじょう)も、その著、大唐西域記の屈支國(亀慈)のところで、「管弦伎楽、特に諸国より善し」と記しています。
亀慈琵琶と言えば、五弦琵琶を指すのが普通です。これを裏付けするかのように、亀慈洞窟寺院の中の音楽洞窟と呼ばれる壁画には仏たちが奏する管弦楽の絵がありますが、そのなかにインドから伝わったとされる五弦琵琶が描かれています。楽器の胴の部分はスマートですが、日本の正倉院にある螺鈿紫檀の五弦琵と同系統のものかもしれません。音色は、分かりませんが、今のサツマビワのような哀調のものと違い、陽気な民族性からいっても、琵琶でダンスもしますので、きっと西域のからりと澄み切った青空のように明るい調子で奏でられたのでしょう。
亀慈楽は胡楽の代表音楽といっていい。壁画から見る亀慈人は高鼻白顔のトルコ系やイラン人と思われます。明らかに漢中の中国人とは違います。唐以前の南北朝、隋の時代には、すでに、亀慈人の五弦琵琶奏者、蘇柢婆や白明達の名があり、大いに活躍しました。唐時代の十部伎で使っている楽器は、亀慈伎はこれを全部備えています。
仏教の国・高昌国(トルファン)
高昌國は、西域に留まった漢人が造った都市国家―玄奘が通った頃の王は、麹文泰です。彼は、玄奘が、立ち寄ったとき、玄奘に帰依して、膝を屈して、嗚咽してまで、天竺に行かずに、国に留まってくれと懇願しました。その頃の高昌国には、僧徒は数千人いました。
文泰王は、玄奘の求法の旅にはあらゆる援助を惜し見ませんでした。玄奘は、帰りに、三年留まる事をかたく約束し旅立ちましたが、寄ってみると10数年後、、同国はすでに亡んでいました。
麹文泰は、唐との外交を誤り、唐の太宗皇帝は遠征軍を起こしました。高昌王文泰は、大軍が砂漠に入ったと知るや、心労のあまり、急死したのです。その子、麹智盛が王位を受け、城を枕に戦いましたが敗北、高昌国は、唐の一州となり、安西都護府が置かれました。
当時、高昌国(トルファン)は、音楽も非常に盛んでした。
古い文献には、「高昌、俗、音楽を尚ぶ」「俗、音楽を好み行くものは必ず楽器を抱く」とあります。太宗は、唐の威光を示す勝利に満足しましたが、それ以上に喜んだのは、有名な高昌国の音楽家達を手に入ったことです。太常寺には、九部楽があったが、高昌の楽工を連れてきて、新たに高昌伎を加え十部伎としました。
シルクロードの民の音楽好きは、今も昔も変わりません (続く)