(大干)時は慶応三年十月十四日、徳川将軍慶喜公、時の勢いに抗しえず、ついに大政を奉還す。薩長率いる西軍は、錦の御旗押し立てて、会津を討たんと決したり。徳川恩顧の奥羽諸藩、義のため立つは今この時と、奥羽列藩同盟結びしも、時の形勢見るにつけ、尊王佐幕いずれに就くや、迷いけるこそ是非なけれ。
(地)此処に、長岡藩家老、河井継之助、山田方谷の薫陶受けて、日々事上練磨怠らず、文事を講じ兵を練り、領民の難儀を思わばこそ、戦を避けて、中立の独立藩を志しおりしが、西軍の将、山縣有朋は、恭順もせず、軍費も出さぬ長岡藩を、会津の前にまず討つべしと、下山道軍を差し向けぬ。
(崩)兼ねて期したる事なれば、軍事総督河井継之助、単身乗り込む小千谷の敵陣、藩主忠訓公の嘆願書を懐に、岩村精一郎軍監と、慈眼寺にて相見ゆ。
(地)長岡藩の命運かけて、講和を唱え、理を述べて、戦いを避け大義をば、全うせんと図りしが、昼夜に及ぶ嘆願も、聞く耳持たぬとにべもなく、小千谷会談決裂す。惜しむらくは、まだ若年の血気にはやる岩村には、継之助の深慮遠謀を推し量る、度量と能才いまだなし。
もはや、これまでと、継之助、ここに慶応四年五月三日、奥羽越列藩同盟の盟約なりて、三十余藩結束す。(崩)長岡武士の誇りをかけて、祖霊の山河護るべし、官賊一歩も踏みこませじと、五段梯子の袖章つけて、北越戊辰戦争の戦端開かれぬ。
長岡城から三国街道南へ三里、榎峠は守りの要、急遽、川島億次郎を差し向けて、二万に余る大軍を、僅か千余の手兵にて、
榎の峻嶺に防ぎ止む。長岡魂今こそ見せよ、獅子奮迅にあばれたり、(変調)慶応戊辰五月闇、みそらに月の影もなく、残れる星も鐘の音にみるみる消ゆる暁や、敵の将軍山縣は、峠の上を眺め上げ、攻めあぐねぞ、一首詠む。
(和歌) 敵守る、砦のかがり火、影更けて
夏もみにしむ越の山風 (山縣有朋作)
(地)眼を西に転ずれば、西軍の海道軍続々と、柏崎港に上陸す。折から水かさを増す信濃川、ものともせずに押し渡り、下長岡城をめざしたり。上味方の軍勢、城を枕に背水の陣、寄せ来る敵に立ち向かう。(崩れ)天地も裂けん鬨の声、此処を先途と戦いしも、衆寡敵せず、城は無情にも落ちにけり。されど何条ためらうべき、長岡城奪還の秘策、我にあり。忽ち募る決死隊、八丁沖潜行を敢行す。
(朗読語り)時は七月二十五日、特別編成、総勢十七個小隊、六百九十人。携えるもの、一人銃弾百五十発、兵糧の切り餅三日分、泥沼に足を取られた時の備えに青竹一本。合言葉、「誰か」と問はば、「雲」と返す。午後七時、三番太鼓が打ちならされた。出発の合図である。夜半十時、戦闘部隊が、いよいよ四足獣も背を向ける八丁沖に足を踏み入れる。自然のなした一大沼沢、葦の湿地帯が梅雨の長雨で満々と水をたたえ、膝、腰まで没し、中心部は、底なし沼。敵に悟られぬよう明かりは付けず、枚を啣んで粛々と、一列縦隊で沈黙の行軍。青竹を突き刺し、一歩一歩、足を交互に泥に挿し込み、引き抜き、また進む。雲間より月の光が差す。反射的に身を隠す。戦闘部隊が、八丁沖の南端、富嶋村に達したのが、午前三時、総勢渡り終えたのは午前五時、ほんのりと空が白み始めてきた。
、継之助は、疲れを癒す暇も与えず、直ちに前線の敵堡塁めがけて、攻撃命令を発したり。
(崩)突撃命令聞かばこそ、長岡藩兵一斉に、ぎらりと白刃抜き放つ、疾風のごとく駆け抜けて、
「長岡の人数二千人、城下へ死にに来た。早よ殺せ~、死ねや~、死ねや~」と吠えるがごとく絶叫し、多勢と見せて、敵の陣地を攪乱す、日頃鍛えし調練の冴え、見せるは今この時と、縦横無尽に切りまくる。まさかの方角より大軍現る!西軍慌てふためき応戦すれど、腰は据わらず、成すすべ知らず。長岡の精鋭、一気に、城内に雪崩れ込めば、敵兵たちまち総崩れ。山縣参謀、西園寺大参謀も、命からがら逃げ出すその様は、飛び立つ水鳥に驚きし、富士川の故事に似たるぞや。
(吟詠)痛恨の落城奪還を期す 北越の蒼龍秀眉堅し
三更朧月、八丁沖を渡れば 眼前暁に浮かぶ長岡城(月心作)
(吟替)あなうれし、ここに長岡城回復す。城下の領民、歓喜して、酒樽割られ、兵共にふるまえば、町家の娘衆らも輪になって、やれめでたやと、総出で踊る長岡甚句。
(民謡)ハー、エーヤー長岡、柏の御紋
(ハァヨシタヨシタヨシタ)
(ハァヨシタヨシタヨシタ)
七万四石のアリャ城下町
イヤーサー、余石のアリャ城下町
ハー、エーヤーお前だか、左近の土手で
(ハァヨシタヨシタヨシタ)
背中ぼんこにして、豆の草とりゃる
イヤーサー、ぼんこにして豆の草とりゃる
(地)されど如何せん、薩長軍の精鋭は、眦決し、恥をすすげと、押し寄せる。被弾空に劈くその中を、我に続けと継之助、町中駆け抜けんとしたその刹那、敵の流弾流れきて、左のすねを砕かれぬ。嗚呼、無念なり、河井軍事総督ついに倒れたり。急ごしらえの担架に横たわり、敵には我が首、渡さじものと、脇差、胸に置き替えて、にっこと笑みて、指揮を取る。敵はいよいよ迫りきぬ。せめぎ、持ちこたえし五日間、もはや退くも止むなしと、会津を目指し、八十里越え。傷の痛み、いやまさり、これほどまではと口歪む。
“八十里、腰抜け武士の越すところ”と自嘲の一句を呟けば、夏の太陽じりじりと、深手の傷にも容赦なく、膿あふれ出て、蛆騒ぐ。松蔵、いっときも離れず世話をやき、ようやく村里に着きにけり。
(朗読語り②)此処は会津領内只見村、ここで八日間、留まり、八月十三日、塩沢村の医師、矢澤宗益邸に運び込まれた。
「どうやら、わしは死ぬ」
死が旦夕に迫っていることを、松蔵に告げた。西軍は、すでに新発田に本営を移し、刻々と迫っている。一刻の猶予も相ならぬ。長年、献身的に仕えてくれた下僕の松蔵に、
「おみしゃんには、ながながと世話になったでや」
労をねぎらい、万一の時にと、妻が松蔵に頼んでいた遺髪を切らせ、すぐに火葬にする薪を村人に集めさせた。
「死んだらすぐに俺を荼毘に付して、敵には渡すなや」
「旦那様、望みをお持ち下されまし」
松蔵は、はじめて、男泣きに泣いた。
「松蔵!泣くな、これは命令だ」
「は、はい」
「急いで棺を拵えよ、薪をくべて火をさかんにしろ」
庭先で、湿った薪が赫々と弾けた。松蔵が夜を徹し、棺をこしらえている。障子越しに、身じろぎもせず、じっとそれを見つめる継之助、時折、痛みがやわらぐのか、口元がかすかに緩む。
昔、座敷で女たちの三味にのせて、よく歌った、おはこの一節でも唇に含んでいるのだろうか。
“四海波でも切れるときゃ切れる、三味線枕でチョイト、
コリャコリャ二世三世”・・・・か
翌朝未明、松蔵が気が付いたときは、すでにこと切れていた。
“俺の命も、ちょいと今日切れるよ”とでも、言いたげに、精霊流し船に乗って旅立った継之助の安らかな死に顔だった。
(謡出)秋は葉月の十六夜に、越の山風吹き流れ、塩沢陣の火は消えぬ。戦いの後、夢のあと、水鳥遊ぶ信濃川、河井の水は澄み渡り、君が生き様、いや清く、行く末長く長岡の、 誇りとなりて残るらん。誇りとなりて残るらん。 (了)
(創作にあたって)
本琵琶歌は、原題、河井蒼龍窟(国分武胤編・永田錦心作曲)を下敷きに、創作、文中、一部を勝手に引用させていただいている。なお朗読語りの所は、主に司馬遼太郎氏の峠(下巻)の描写を参考にまとめさせていただいた。現代人にも分かりやすい琵琶歌をとの意図ながら、恣意に走ったところは、ご宥恕をお願いする次第である。
敬愛する泉下の大先輩に心からの畏敬の念をささげつつ。 (2016.6.26 古澤月心)