2014年11月8日土曜日

琵琶の歴史21:第五話 琵琶法師と平曲⑥~明治時代から現代へ



  明治新政府は、幕府につながる、制度を次々壊していった。その中で後世にもっとも謗られる大愚策は、神仏分離令といえよう。これに伴い廃仏毀釈運動が全国に起こり、仏像や寺をはじめ重要な文化遺産がとめどなく壊され、廃棄されました。故郷宮崎の各所にあった盲僧寺もその一つ。言って見れば、まさに国家的犯罪であるといっても過言ではない。徳川幕府に守られた盲人の当道制度も例外でなかった。旧徳川幕府の社会制度につながるものとして、覚一以来六百年綿々と続いた盲人の当道制度が廃止されました。

最後の職検校藤村性禅は、京都の長屋の一軒を借りて、あんま業に転じました。性禅は、明治四十年の音楽雑誌につぎのような談話を残しています。


「平家の起源は、余程古いもので、(中略)慶長前後には隆盛を極めましたが、その頃は、まだ流儀というものはなかったのでして、その後、波多野検校と前田検校という名人が出て以来、波多野、前田の両派が出来たのですが、(中略)明治三年まで、職屋敷が現存しておりましたが、同年、私が波多野から出て、検校になると同時に、職検校が廃止になりました。


 以来年々見る影もなくなりました。所詮平家は、薄幸な芸道と思うより他ないので、只今では、独り楽しむということにして、月々寺町の浄教寺で例会を催す位です。もっとも語り人も少なくなりましたが、又聴く人も希になりまして、只今では、大学の総長の木下さんと舎監とかの石川さんと二人位しかないのは心細い訳です・・・・・・」


  平曲家、館山漸之進は、この明治新政府の措置に対し、その著、「平家音楽史」で次ぎのように慨嘆しています。


 「・・・・・あゝ平氏二十年の栄華は、源氏の為に亡ばされ、平家六百年の旺盛は、明治官憲の為に亡ぼさる」


 この館山漸之進は、元々津軽藩士の子孫で、藩公の命で平家を伝承した楠見家の子孫である。館山禅之進の子息庚午氏も、生前平曲保存に尽力され、その貴重なテープが、今二百句()が録音保存されています。


長年、この庚午氏から、平曲を修習され、これをベースに平家学者として、『平曲考』という大著を著されたのが、故金田一春彦先生です。その金田一先生に長年師事し、現在平曲家として活躍されているのが須田誠舟先生です。氏は、金田一先生から、「是非、平曲普及に尽力してくれ」との衣鉢を受け継ぎ、多年後継者育成にも力を注いでおられます。不肖小生もその弟子としてその末端を汚してしています。


もともと、男だけの世界であった平曲ですが、現在では、女流平曲家も加わり、わずかですが活躍されています。


また、もう一方の流れで、この館山系以外に、名古屋(検校)系といわれる平曲が受け継がれています。先ほどの最後の検校藤村性禅のあと、明治末期から大正・昭和の初めにかけ、井野川、土井埼、三品検校がいましたが、皆鬼籍となりました。当道廃絶後、吉沢検校の弟子の小松検校が国風音楽講習所を立ち上げ、ましたが、その伝統を受け、国風音楽会となり、佐藤正和検校から三品正保検校とつながり現在その弟子にあたる盲目の今井検校勉氏が、その貴重な伝承を守っておられます。しかしその伝承曲は、現在平曲199曲の内、わずか、那須与一、竹生島、紅葉など8曲が伝承されています。

父漸之進の後を受け、館山康午氏が、生前200曲を録音し、保存されています。館山康午氏に師事された金田一晴彦先生は、平曲研究の第一人者であるが、後世の平曲家のために、東京大学の蔵書だる「青洲文庫本」の墨譜付きの「平家真節(まぶし)199句」並びにその墨譜や弾法を分かりやすく解説した平家音楽書「平曲考」の両大著を遺された。その出版本のお陰で、館山系は、現在全句(曲)を語ることが可能である。その指導は現在金田一晴彦先生の衣鉢を継がれる須田誠舟先生が、銀座の稽古所で、熱心にその後継者の育成に当たられている。

その他、康午氏の子息宣昭氏やその直系一門などが伝承者として、研鑽されているが、その数は、薩摩、筑前等の現代琵琶奏者にくらぶれば非常に少なく、お弟子さんたちを含めても全国で20名には達しないと推察される。

 最後に、あらゆる日本邦楽の源流ともなった古典語り平曲、日本邦楽の宝として、今の若い方々にもっと魅力あるものにして、興味を持ってもらい、その伝承芸能を子々孫々に受け継いでもらいたいものであります。(平家琵琶了)