2014年11月6日木曜日

琵琶の歴史22:第六話 近代琵琶①~薩摩琵琶



近代琵琶の源流は、盲僧琵琶であることは、先に述べましたが、その盲僧琵琶が進化して鹿児島地方に根付いた薩摩琵琶のことから話を進めてみたいと思います。特に島津藩では、その手厚い庇護のもとに明治維新の盲僧制度の廃止まで脈々と息づきました。
 成田守氏の「盲僧の伝承」によれば、盲僧たちは、その宗教的活動の傍らその法要の宿泊先で依頼者の要望で、唄を謡い昔話を語り、軍団語りをしたり、曲弾きや八人芸をして見せました。彼等は、宗教家であると同時に芸能者でもあったのです。
 ところで、この盲僧たちが、地神陀羅尼経を唱え、宗教祭具として使っていた琵琶が歌と共に弾奏されるようになったのには、いかなる道程があったのでしょうか。

 近代琵琶の起こり

 十二世紀末、島津日忠久が、薩摩、大隅(おおすみ)、日向(ひゅうが)の守護職として下向した折り、祈祷僧として、京都常楽院の第十九代院主、宝山検校を伴って行ったことは、前に述べましたが、時代を重ね十五世紀の安土桃山の時代、第三十一代院主、淵脇長寿院は、時の名君と言われた島津忠良よりもともと琵琶盲僧の宗教楽器としてつかわれていた琵琶を改良するように言われました。忠良自身も自ら琵琶歌を創作し、士気鼓舞と精神高揚のために盲僧に弾じさせ、やがて、武士の間にも広がっていきました。これが薩摩琵琶の起源であり、近代琵琶は、ここから源流を発するのです。

  近代琵琶の父・日新公

島津忠良(1492~1568)は号を日新と称したが、戦国時代の明応二年、島津の分家として井作亀丸城に生まれました。 忠良は本家との十年余りの戦いの末、勝利を収め35歳の時、長子貴久を時の十四代藩主、勝久の継子にすえて、これを補佐し藩政を司りました。この時。忠良は質実剛健の独特の薩摩隼人の気風を作りあげるために琵琶を活用したのです。忠良は若い頃、井作海藏院の頼増法師に預けられました。その時法師から学んだ神需仏一体の教えを基本に、薩摩武士を教育しました。忠良は、36歳の時、剃髪して日新斉と号したので、この教えを日楽ともいい、以後、薩摩教学の基となりました。

 日新公(じっしんこう)は、今も薩摩琵琶として有名な『武蔵野』、『春日野』、『迷悟もどき』『花の香』、『彼岸花』、『蓬莱山』などの歌を作りました 日新公は、『いろは歌』を作り、薩摩士民大衆に分かりやすく神需仏の三教を中心にして生活の指針を与えました。

 『いろは歌』の冒頭のみ掲げてみます。

 ・いにしえの道を聞きても、唱えても、我が行いにせずばかいなし

 ・楼の上も、はにゅうの小屋も住む人の、心にこそは高きいやしき

 ・はかなくもあすの命をたのむかな、今日も今日もと学びはせで。

 日新公は、まさに孔子の「楽を作し、徳を崇む」の精神で士民を教化しました。

  淵脇寿長院と琵琶の改良

忠良(日新公)は、当初加世田の居城にいました。寿長院が住まいしていた常楽院とは、三十分も離れていないところでした。寿長院は、忠良に対し、軍略の助言をしたなかでもあり、単に琵琶だけの付き合いでもなかったものと思われます。
 盲僧琵琶は、当初笹琵琶といわれる小振りの三弦六柱のものでした。寿長院は、琵琶歌に合うように六柱を四柱にかえて、形は、平家琵琶風にし、柱間を広げ、音締めによる琵琶独特の音色を作りだしました。

 材質は、従来の柳から朴(ほう)の木にかえて胴力を増加させ、底力のある音色を創った。撥も大きくし、弾くだけでなく、撥で腹をたたくいわば、打楽器として効果をもたせ勇壮さを出すように改良しました。このような改革で薩摩琵琶は、独特の幽玄の風格と崩れ(くずれ)などの豪快な撥さばきによる弾奏を可能にしたのです。
 日新公と寿長院コンビによる薩摩琵琶楽器と歌の創作は、五百年後の現代の琵琶演奏家に基本的に受け継がれているのです。

 まさに、島津日新公を近代琵琶の父とするならば、淵脇寿調院は、さしずめ近代琵琶の母ということが出来ましょう。関ヶ原横断突破退却で有名を馳せた17代藩主、島津義弘の頃になると、盛んに戦記物の琵琶歌が歌われるようになりました。盲僧は、戦にも同行しました。その日の戦い終わって日が暮れて、かがり火を焚いた陣中で、琵琶を弾奏し、勇壮な、『くづれ』で士気を鼓舞したことでしょう。また、日新公は、薩摩琵琶の弾奏と一緒に『天吹(てんぷく))を吹かせ、合奏させました。天吹とは、尺八の短いもので一度絶えたかに見えましたが、今薩摩琵保存会の人たちの尽力で復活しています。
 この様にして、盲僧が戦場で弾じた琵琶は、次第に武士によってたしなまれるようになりました。座頭琵琶から士風琵琶へと移っていくのです。

江戸時代の薩摩琵琶

天明二年(一七八二)頃、医学の修業で、九州にに赴いた橘南谿の西遊記{巻の一}、「琵琶の好手」に次の記事が書かれています。

「九州には、琵琶法師という者夥しくありて、琵琶を弾じ、道々に立て、米をもらう。其の歌、其の律かまびすしくて聞くに堪えず。また琵琶は、地神経を弾く。三味線法師などの賤しき者には、よはいすべきものにあらずなど、をこがましくいひののしりて竈(かまど)祓いするも有り。薩摩大隅の二国もっとも多し。されどこの二州なるは、他国とは大いに異なりその形も平家琵琶などよりは、小さく撥は、黄楊(つげ)木にて作り、甚大にして扇をひらけるが如し。年若き武士皆琵琶もて遊ぶ。彼二州は、名だたる勇猛の風あるに横たへたる荒をのこの夜な夜な琵琶をひきあるく風情おもひやるべし・・・・・・・・・・」

 当時の門付けの状況や血気盛んの若い武士たちが琵琶を弾じ、高言放歌していた様子が分かる。ただ南谿が、おびただしくいる琵琶法師の歌がかまびすしくて聞くに堪えずと感じているのは何とも面白い。また彼は、森本見流という人の処で宝生という人が、弾じた琵琶の印象を次のように伝えている。

「遠近、五輪、花の香、小町、玉鬘、似我、墨絵、老曽の森、おしの夢などといふように、数々ひけり。先其歌の名も雅にして其章も古めかし。其音のひびきは、春の野の霞の中に囀るがごとく、谷の清水の岩ほにむせぶに似たり。其しらべ高きは冬の嵐に枯残る松に渡るが如し。京都などに聞きつる平家琵琶などには似もよらず。彼の白楽天が琵琶行はじめて思い合わさり。又くずれ(戦記物)というものあり。是は、薩州の昔、伊東、大友などと合戦のことを語るにて、其声は激しく、琵琶の手も繁手なり。はじめの歌とは、格別に異なるものなり。もっともこれは新敷(あたらしく)聞こゆ」

宝生は、かなりの弾き手であったことが推察され、橘南谿がいたく感心した様子が読み取れます。崩れは、日向の飫肥藩(今の日南市)の伊東氏との戦い『木崎原の合戦』や『赤星くづれ』などを弾いたのでしょうか。現在の薩摩琵琶正派の原型が18世紀後半にはすでに出来上がっていたことが分かります。また、この中で京都の平家琵琶との比較が興味深くかなりのカルチュアショックに合ったのでしょうか。