2014年11月9日日曜日

琵琶の歴史20:第五話 琵琶法師と平曲⑤~江戸時代の平曲伝承について


江戸初期の平曲文芸復興期

徳川家康は信長・秀吉の天下統一の後を受け、江戸幕府を開き、その基礎が定まり、関ヶ原の戦い(1600)大阪冬の陣・夏の陣を経て、徳川の天下の実権はゆるぎないものとなりました。

時に元和元年(1615)戦乱はほぼ収まり、武家中心の社会組織が出来上がり、秀忠、家光の二代、三代将軍へと受け継がれ、ここに平和がよみがえり、武から文の時代となるや、文化芸能も盛んになってきます。平曲も例外ではありません。
このころ出版事業が勃興し、古典刊行の機運も出てまいり、元和7年には片仮名整版本の平家物語(流布本)が世に出ました。

平家の名手が綺羅星の如く輩出、中でも波多野孝一と前田九一によって、それぞれ波多野流、前田流の名でよばれる節墨譜の正本も生まれました。

この時期は、応仁の乱から約150年の戦いにあけくれた戦乱を経ての、平曲界の整理が進んだ文芸復興期と申してもよいのかもしれません。

江戸幕府の保護した当道座と平曲

平曲は当道の表芸として、江戸幕府の保護により、式楽としての地位を保ちました。芸どころの尾張徳川でも、法要式樂の地位をもちました。当道座は京都にある職屋敷の総検校が引き続き束ねていましたが、元禄2年に、五代将軍綱吉は、お抱え医師としての鍼灸での治療の功績により、杉山検校に、六百石の扶持と、江戸両国に広大な敷地(10,000㎡)与え、関東八か国の盲人を束ねさせ、惣禄屋敷を置くことを許しました。(現在の墨田区千歳:江島杉山神社の地)この時、京都の職屋敷方には、清聚庵(せいじゅあん)を賜った。寛永11年(1634)小池凡一検校から幕府に当道要集が提出されました。

徳川将軍も聞いた平曲

徳川将軍(二代秀忠、三代家光)たちを始め、諸大名、公家たちも能楽以外に高山誕一、小寺温一、前田九一、小池凡一といった名人の平曲に耳を傾けたのです。

しかし公認の当道座の存続で検校たちによって平曲の節は守られ、伝承していきましたが、庶民の平曲の関心はそれほど高くならず、室町の全盛期とまではいきませんでした。平家語りだけで、生活できる全国行脚の琵琶法師たちはほとんどいなくなりました。

最早、平曲だけでは、糊口をしのげなくなり、三線の伝来により、琵琶法師は庶民に人気の出た三味線音楽や鍼灸、按摩にその糧をもとめたのです。

 かわりに、平曲の関心は、晴眼の貴人、文人、茶人、商家の旦那衆や武士階級などの教養知識人に移っていきました。お陰というか、この頃、平曲の正しい意味の宣揚を志す平曲芸道論や、いろいろな指南書なども作られました。墨譜も工夫されてきました。

ついでながら、平曲芸道論として、特筆すべき書として、寛永の頃書かれたとされる「西海余滴集(さいかいよてきしゅう」があります。著者は、「自偶」とあり実名は分かりませんが、一方流の祖、前田九一ではないかと、平家学者富倉徳次郎は推察されています。

「指南書」はいろいろあれど、「平曲芸道論」として多分現存唯一のもので、平曲家は言うに及ばず現代琵琶の語りを志す人は、“琵琶の花伝書”として、一度は目をとおしておきたい古典良書といえます。

時代は、平曲から浄瑠璃へ

やがて琵琶は、三味線にとって替わられました。浄瑠璃の発生によって平曲は廃れ行く道を辿りはじめ、庶民の中の音楽の世界は交替していったのです。

江戸時代の沢住検校に代表される三味線音楽が今や盲人たちの音楽となりました。江戸初期の延宝(16731680)の頃、次ぎの句があります。

月に平家を一句望むぞ

 語る夜の長浄瑠璃のその後に

 座頭が表芸とする平曲に替わって人気の出た浄瑠璃を語り、ついでに平曲をを語っていたということを示しています。もはや江戸期の盲人達は、平曲は、主流の歌ではなくなっており、楽器も琵琶から三味線音楽にとってかわられた時代でした。その端境期ともいえる、元禄2年の五月のころ、芭蕉が、「奥の細道」のなかで、福島の釜石での旅籠の床の中から、奥浄瑠璃を聞いた話が載っています。その時は、まだ弾いているのは三味線ではなく、楽器は琵琶でした。

「・・・その夜、目盲法師の琵琶をならして、奥浄瑠璃というものをかたる。平家にもあらず舞にもあらず。ひなびたる調子打ち上げて、枕近う、かしましけれど、さすがに辺国の遺風忘れざるものから殊勝に覚らる」。

芭蕉は舞(幸若舞のこと)でもなく、平家(平曲)でもないと言っています。多分、東北で語られていた奥浄瑠璃「義経奥州下りの一節」を枕辺で聞いて、すでに江戸では忘れさられた琵琶弾法での浄瑠璃語りを、懐かしがっている様が偲ばれます。

平曲中興の祖・荻野検校

  江戸時代の平曲の系譜は、八坂の流れを汲む波多野孝一を祖とする波多野流と、前田九一を祖とする一方(いちかた)流です、江戸の中期頃、平曲の中興の祖といわれた荻野検校(本名業知)が出て、両流を学び、『平家真節(へいけまぶし)』という本をあらわし、後世に伝えました。業知は、広島の裕福な商家の生まれ、少年時代に病んだ目の視力が低下し、終には失明しました。それを心配した両親は、針医の道を歩ませ、京都で修業させた。往時の平曲の隆盛は、今や望むべくもなく、平曲だけでたつきをたてることは、難しくなっていった時代。当時の総検校は、覚一以来の500年の平曲伝承の衰亡を憂い、その危機を救う後継者として業知に白羽の矢を立て口説いた。業知(後の荻野知一)は、針医者としてもすでに一流の腕をもっていたが、平曲も並行して学び、職屋敷に出入りするたびにその非凡な才能を見込まれたのでしょう。時に22歳(京への初上りは13歳)でした。

 そのうち荻野検校の名声は広がり、「平家を語るは荻野唯一人」といわれた。荻野検校は優秀な弟子を育て、友人針医で俳諧師でも有名な井上士朗のツテもあり、藩の懇請を受けて芸処、尾張名古屋にいき、多数の協力者を得て、500年の内に乱れに乱れたた詞章と譜節を直す整理譜の大事業に着手しましたた。完成までにゆうに7年の歳月(39~45歳)を要した。安永5年(1776)の事あった。たびたび京へも往復し、平曲を指導したが、可愛い娘たちと別れてくらすのがいやで、京都ぐらしの総検校への度々の懇望も断り、終生家族と名古屋で生涯を送ったという(70歳で没)。

幕末に江戸で活躍した浅岡検校

江戸時代の川柳で、
  “琵琶の弟子、一人ふえれば二人減り” 
というのがあります。なにか今の邦楽のお稽古事の現状にも通じる面映ゆいものがありますが、江戸時代の中頃に衰微した平家琵琶も、幕末になり、少し盛んになりました。

江戸末期に、その活躍に特筆すべき琵琶法師をあげるとすれば、江戸でこの人ありと言われた麻岡長歳一宗匠でしょう。とにかく平曲がうまかった。島津斉彬公の多額の援助を惜しまず、そのお蔭で、京都に上り修業した。その後江戸で、多くの弟子を指導し、伝承に貢献しました。開明派でも知られる島津公は、本人に頼まれ、麻布に住んでいたので、麻岡と名乗ったらと名付け親になったというエピソードもあります。薩摩の島津藩でも平曲が復興し、特に津軽藩の藩主は、平曲の復興に力を注ぎ、藩士の楠美家に命じた。代々の楠見家の平曲の伝承への貢献は大なるものがあり、平家音楽史を著した館山漸之進やその子館山康午と貴重な伝承につながっている。今の平曲家は、名古屋系を含め、この仙台系の楠美家のお陰と言ってもよい。(名古屋系と仙台系の流れは、次の21で詳述)

江戸期260年平曲の歴史は、関奎一(平曲物語(ひまわり出版)の著者)の表現を借りれば、

「浄瑠璃の発生によって平曲はその使命を終えたと言ってよい。三百年近い平和な長い封建制度下の江戸時代は同時に平曲の長い長い没落の過程でもあった」と・・・。

明治・大正・昭和と今に生きる数少ない平曲家たちは、この先達の労苦を忍び、遺産を大事にして、これを受け継ぎ次の世代につなぐことである。微力ながらこの拙い小論の執筆意図もここにある。

*続きは「琵琶の歴史21~明治以降の平曲」をご参照。
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