2014年11月5日水曜日

琵琶の歴史23:第六話 近代琵琶②~薩摩琵琶(続き)


徳川幕府の尋問書

「薩摩琵琶」という言葉の名付け親は、実は徳川幕府であったというエピソードがあります。越山正三氏」の「薩摩琵琶」から原文のまま抜粋拝借して紹介しよう。

「徳川幕府は、外様大名の動向は常に気になるところである。前述の西遊記にも早速注目し、老中松平越中の守の名で薩摩琵琶に関する質問書を出したところ、薩摩藩士の江戸記録奉行であった黒田清躬(きよみ)は、次のような答弁書を提出した。
 昔島津家の先祖忠久公は、源頼朝のご子息であったが、薩隅日(さつぐうじつ)の三州を賜り薩摩の国に下向された。父頼朝は、この時宝山検校という盲僧を一緒に同行せしめた。阿多井作に住居を与えられ、地神経の経文をともに琵琶を弾奏した。
 その後、幾度もの軍陣の戦場に琵琶法師が従軍している。薩摩の武士共は、陣中閑暇のつれづれの間にいつしか琵琶の妙法を習得し、もっぱら士族青年の間に専用の楽器として愛用されるようになった」


盲僧琵琶は、地神経を唱える伴奏楽器でしたが、いつしか若い武士たちが愛用するようになって、宗教楽器から離れ、戦陣での士気鼓舞の歌として弾奏されるようになりました。黒田が提出した二百五十年間の士風琵琶の調査書を見た幕府の高官達は、薩摩隼人の勇武の原動力に琵琶が大きな働きをしていたことを初めて知り驚愕しました。

「こんな危険なものは、絶対に他国に普及されるようなことがあっては、ならない」と幕府は決定しました。

薩摩には、『示現流』という敵を一撃で倒す勇武でなる激しい伝統剣法がありますが、それは、それで薩摩国内だけのこと、“音楽に国境無し”とか、むしろ『薩摩琵琶』の武士の音楽が他国に伝わる影響のほうがいかに徳川幕藩体制維持にとって脅威かと、畏怖したのが分かります。

歴史に残る琵琶演奏家
 
 島津の代々の藩士は、琵琶をこよなく愛し、琵琶歌をつくりこれを奨励しました。
幕末の英傑、島津斉彬(なりあきら)は、藩主となって江戸を下るとき、開国派の同士で親友でもある宇和島の藩主、伊達宗城を始め、いろいろな知人友人を招き琵琶会を催しました。弾奏者は、藩士山本喜左右衛門で曲目は、武蔵野や小敦盛でした。
 
 薩長連合といえば、明治維新事業の重要な出発点と機動力の原点となったことは周知の事実ですが、この舞台にも薩摩琵琶が一役買いました。薩長連合の盟約を結ぶ会合は、幕府方の目を盗むため、琵琶会という名目で行われました。出席者は、云わずと知れた大河ドラマ(平成20年)でも有名になった小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)の薩摩藩士3名、長州藩からは桂小五郎、品川弥次郎、それに土佐藩の坂本龍馬でした。

 晴れて盟約の契りなり、琵琶の名手、児玉利純(小南)が『形見の桜』を弾奏して歴史的盟約に錦上花を添えました。蛤御門の変で決定的な不倶戴天の仇敵となっていた薩長の怨念をやわらげるかのように弾かれた琵琶の琴線に触れて、座を和らげたこっとでしょう。
幕府の恐れた薩摩琵琶が奇しくも国運分つこの倒幕の盟約日に、一段と鳴り響いたのはまた運命的ですらあり、興趣の尽きぬところであります。
 
 因みに児玉は、明治六年西郷が征韓論で下野したとき、ともに帰り、西南の役に従軍しました。田原坂の激戦で負傷し、生き残り、琵琶では名人と謳われましたが、名曲城山だけは絶対に弾奏しなかったと云われています。
 つとに知られているところですが、西南の役の城山籠城中に、琵琶が奏でられました。西郷首領以下、腹心の桐野利明、村田新八、別府晋介の勇将の面前で弾奏したのは、西幸吉です。また、城山陥落の前夜、琵琶を弾奏したのは、若き従軍軍医の松崎瑞謙でした。愛用の琵琶は、『木枯らし』といい、今でも松崎家に保存されている由。

 西幸吉は、六歳の時から琵琶を習いました。城山の戦闘で負傷し、官軍に捕まりましたが、少年であったため許されました。明治十二年に上京、吉水経和と共い御前演奏の栄誉に浴しました。以後、西幸吉は、一躍中央の舞台で有名となり、明治の琵琶興隆の一翼を担いました。 

薩摩琵琶の系譜

 ここで、薩摩琵琶の系譜を整理しておきますと、淵脇寿長院の流れを汲む座頭風琵琶の名人で、如楽の弟子に妙寿という人がいました、弾き語りもほぼ完成し正派の元祖と言われています。妙寿風弾法として今も伝わっています。

士風琵琶と町風琵琶

 同じく如楽の弟子で、町風琵琶作り上げたのは、徳田善兵衛です。前に述べました西幸吉は、善兵衛の弟子で士風琵琶の謹厳でにして枯淡の芸風をやや町人風に艶っぽく変えたのが町風琵琶と言われました。徳田善兵衛の門下には、きら星の如く名人が輩出し、やがて吉水経和の流れのなかに、後に、錦心流をうちたてた天才永田錦心が出るのです。
 
士風琵琶

 士風琵琶の祖は、池田甚兵衛と言われていますが、詳しいことは余り伝わっていません。大隅国分の出かもしれません。この流れに川上元正がいます。盲僧の流れで、『妙寿風』といわれるのに対して『元正風』と呼ばれ、質実剛健、禅の味を配した枯淡の弾法です。この流れの中から須田伝吉を始め。児玉天南、荻原龍洋、吉村岳城、池田天州、辻靖剛その他の名人が出ました。今もその流れを引き継いでいる会に『正絃会』という会員組織があり、現在は、辻靖剛の門弟である須田誠舟氏が主宰しています。100年に余る歴史を秘めて、毎月一回演奏会を行い、多くの会員を擁しています。