2014年11月4日火曜日

琵琶の歴史24:第六話 近代琵琶⓷~錦心流琵琶の誕生


錦心流と薩摩正派 

 鹿児島の城山が陥落、その砲煙のくすぶり、ようやく人々の脳裏から薄れようとしていた8年後の明治18年、東京・虎ノ門に錦心流の創始者、永田武雄(錦心)が産声をあげました。丁度、西郷南洲の朋友、勝海舟が4年がかりで南洲を偲ぶ琵琶歌『城山』の創作に呻吟している頃でもありました。幼児より、絵心があり、日本画の田口米作に師事し、更に寺崎広業画伯の門を敲き、文展にも数回入選して才能の片鱗を見せ、前途洋々たる将来を嘱望されていました。その武雄は少年の頃から、近くに住んでいた琵琶の専門家の弓取り熊助の琵琶を聞いて育ちました。
 二十歳のとき、画筆を置き、琵琶の吉水経和(錦翁)の弟子である肥後錦獅の門下となりました。あわせて、吉水錦翁を盟主とする錦水会にも入会しました。当時琵琶新聞を発刊していた椎橋松亭の記述によれば、錦水会の起こりは、御前演奏家の光栄ある吉水錦翁が斯道のため、琵琶歌を盛んに作りましたが、これを誰にも親しめる家庭音楽にしようと、同好者が大いに吼え合おうではないかという意味で動物の名を選んで、錦号を各自勝手に決めて明治3538日に組織されました。
 
 最初の会員は、小田錦蛙、肥後錦獅、小田錦豹、戸田錦蛤、小田蝶などで、琵琶歌の創作に情熱を燃やしていた小田錦蛙は、相談役でした。この頃、錦水会は、昇龍の如き勢いで発展し、錦号旺盛の時代を迎えたのです。町風琵琶の流れを汲む吉水錦翁は、琵琶は薩摩一国のものにあらずととして、『帝国琵琶』を創り大衆化路線を目指しました。
 
 一方の雄、西幸吉は、伝統の薩摩琵琶の流儀を堅持し純粋さを保持したため、錦翁の生き方を残念がりました。当然帝国琵琶は、衣食のために琵琶を弾く琵琶芸人的指向と写り、軟弱、退廃と非難しました。この中で、永田錦心は大衆の心を掴みながら生来の美声と芸術的才能で、努力に努力を重ねて、琵琶を芸術的域まで高めていったのです。

 錦心は、その直門と黄嘴(おおし)会という同人会をつくり、盛んに演奏活動を行っていましたが、直門が増加し、時代のうねりは当然錦心の独立を促し始めました。門下の高松春月は、『永田』の永の字を二分して、一水会と発案、東京、芝の西久保巴町(虎の門)に稽古場を設け、発会式を行いました。明治41年のことでした。永田錦心は、教授について次のことを発表しました。

「決して教える者の型どおりに謡えとはいわぬ。それぞれ特長のあるものであるから、型にはまらぬものは勝手に謡ってよい。しかし薩摩琵琶の如く、段落も構わずに勝手に琵琶を息継ぎの如くに弾いてはならぬ。鹿児島一流の如くラリルレロに発音の出来ぬような不明瞭ではいけぬ。発音を明瞭にして誰にも分かるように解いて謡わねばならぬ」と.(琵琶新聞 松亭記) 
 
 この頃より錦心流の人気はうなぎのぼりとなって、街々にあふれ、錦心が『石童丸』の曲を蓄音機のレコードに吹き込むや、錦心の美声は津々浦々まで響き渡り、“錦心の石童丸か、石童丸の錦心か”とさえいわれました。
 しかし、一時期、純薩派に弾奏家からの敵視はものすごく、錦心流を外道と呼び、錦心流と区別するため、薩摩正派の名が生まれました。時が立つとともに、論難攻撃した従来の薩摩琵琶の人々もやがて錦心の良さも是認するようになったのです。
 
 明治42年2月は、初の天長節(建国記念日)が制定された月、全国津々浦々で祝賀の提灯行列がありましたが、これに見送られた形で、吉水錦翁は、静かに不帰の客となりました。吉水の申し子、永田錦心は、それから6年後の大正4年3月4日(1915)、一門の高弟とはかり、錦心流と正式に命名し宗家となりました。

 以後、錦心流は、我が世の春を謳歌しましたが、昭和2年、43歳の若さで惜しくもこの世を去りました。この時、門弟7千人を越えていたといいます。門下から沢山の名人が輩出して活躍しました。

 流祖永田錦心が、流派を打ち立てて100年有余、昭和の戦乱の瓦解の危機を乗り越えて、錦心流琵琶全国一水会(会長古澤史水)として、現本部は墨田区両国にあります。全国に30支部余あり、会員300名の最大の組織を擁し、流祖創始の精神を脈々と受け継いでいます。

 女流琵琶の誕生

  もともと、琵琶は男性専属のものでしたが、小田錦蝶が、女流弾奏家の嚆矢(こうし)として珍しがられたのは、明治35年の彼女が15歳の春でした。錦琵琶を創った水藤錦穣は、水藤枝水の養女として徹底的に各流派や琵琶外の邦楽を研究し、若くして天才ぶりを発揮し、女流琵琶のジャンルを築きました。宗家永田錦心は、「女流は女流の手で」と錦穣に対し、女流琵琶の創造とその将来を託しました。 

 錦穣は、総伝を取得したのを契機として、錦穣団を組織し、錦心流の女流琵琶の旗手として活躍しましした。彼女は女性の声の高さでは、四柱ではその音締め(ねじめ)に無理がいくので、これを改良して大干と中間の柱(フレット)の間に齣を一つふやしました。

 糸の調子では、四の糸を上げて本調子に合わせ、合奏にも向くように四弦五柱の錦琵琶を考案しました。宗家の錦心も女流のため『春霞』などの美しい端唄を作ってその前途に期待しました。大正⒖年、新しい錦琵琶は、彼女の考案した玉衣(女性の演奏着)、扇形見台と合わせ、華やかに登場したのです。今は宗家、水藤櫻子氏が一門を率い、活躍しています。この錦琵琶からいろいろ女流名人が輩出しましたが、此の事は後の「琵琶の歴史26 現代琵琶」で触れたいと思います。

次は 琵琶の歴史25で 「筑前琵琶」に続きます。