2016年11月14日月曜日

酒を愛し、菊を愛した田園詩人 陶淵明


酒を愛し、菊を愛した田園詩人 陶淵明

陶淵明と「帰去来の辞」について 
 
陶淵明は、今から1600年前の中国六朝時代の詩人です。東晋の興寧3年(西暦365年)、江州潯陽柴桑(江西省九江)の生まれ、南朝宋王朝の元嘉4年(427)年、63歳で没しました。丁度日本で言えば、大和朝廷が誕生した頃でした。 

杜甫・李白の時代から言えば、約400年も遡ります。彼は、長じて、官僚生活を送りましたが、37歳の時、母の死に会い3年間の喪に服しました。その後一旦帰任したが、40歳の時、妹の訃報を機に、80日あまりで当時の知事(彭沢の県令)の職を投げうって、田園に帰ったのです。門閥としては、それ程恵まれてもいなく才能よりも門閥が巾をきかせる当時の官僚社会でおべっかを使わねばならぬ役人人生に嫌気がさしていました。
陶淵明は、田園詩人と親しまれ、昔から多くの日本人にも愛されています。陶淵明の感性は、現代人にとっても、少しも時の隔たりを感じさせない。人間、何時の世も人の悩みは同じなんだなあと親しみすら覚えるのは私だけでしょうか。 
辞める時のエピソードですが、上級官庁から派遣された監察官が来て、属僚たちは、衣冠束帯して出迎えるようすすめました。

彼は、「我、五斗米(べい)のために、郷里の小人に向い腰を折る能わず」と職を去りました。“僅かの俸給の為に、なんで親の七光りで出世した小僧の前にお辞儀をせねばなんらぬのか”といったところでしょうか。 

だが、職を辞するや、早速困ったのは、生活です。五人の食べ盛りの子持ちで、飯びつは何時も空。好きな酒代にも事欠き、見かねた近所の村人が時々酒を差し入れてくれたりもしました。家計のきりもりに奥さんは苦労したしたことでしょう。時の権力者が、隠棲を惜しんで、再度の出仕を強く促しますが、そのたび固辞しました。 

生涯、宮仕えせず、貧乏を友とし、家族や隣人と酒を愛し、誰にも邪魔されることもなく自然を友とし、好きな詩を作り、田園生活を楽しんだのです。職を辞してまもなく四十二歳の時、「帰去来の辞」は出来ました。

「二度と意に染まぬ人生だけは送るまい」陶淵明の心の叫びが今にも聞こえてくるようだ。 

彼は20年間で、多くの詩を作りました。「二十篇の飲酒の詩は有名。ほかに「五柳先生伝」、「桃源の記」、変わったもので、「閑情賦」があえります。降って、北宋の蘇東柀は、陶淵明を、中国文学上第一級の詩人と位置づけました。白楽天始め、多くの詩人が彼を敬慕してやみません。

私と「晩生」 

私事で恐縮ながら、私は、九州の農家の出。当時の思い出ですが、農作業は、すべて手作業で、田を梳くのも牛馬の力を借りた。室町時代頃のやり方そのままといっていい。室町の絵巻を紐解くと、私も実際使った、農機具などが出てきます。例えば、田植えの時、田んぼに水を張り、牛馬にひかせて土を細かくかきならす農具などだ。馬鍬(まんぐわ)といいいます。考え方によっては、陶淵明の頃もさして違いません。 

私の育った終戦直後の混沌とした時代は、子供といえど大事な働き手。田植えや炎天下の田の草取り、馬を使って田梳きもやった。真冬の麦踏みは、足がしもやけで、ひび割れしました。子供心にきつく、いつも、思うのは、早く大きくなって、田舎を脱出して、都会へ行きたいとの思いでした。当時の都会の白シャツネクタイ姿のサラリーマン生活は、まぶしくあこがれに映りました。 

それが上京するや、下宿先で、「帰りなん、いざ田園まさに蕪(あ)れんとす。何ぞ帰らざる」などと淵明の詩を好んで嘯いていたのだからおかしなものだ。だが、この詩「帰去来辞」は、年を重ねる事に、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、私の人生の癒やしとなり、陶淵明の生き方に共感し、自分を投影させて、こんな晩年の生き方が出来たらと私の人生の支えになりました。 

昨今、田舎回帰の傾向がありますが、もともと、日本人は、農耕民族のDNAがあり、心の片隅に「誰にも縛られない自然を友とした、晴耕雨読の生き方的なもの」をロマンとして持っているのかもしれません。 

1958年ごろ、学生時代、仲間と詩吟を始めたこともあり、この漢詩を私なりにもっと分かりやすい言葉に翻訳し吟じたいと思っていました。それが、現実になったのがずっとあとで、2000年ごろです。琵琶伴奏で節付け出来るような詩に直してしてみたいと作りました。もともと人にお聞かせするものでなく自分で、ひとり楽しむためのものでした。(詞章:琵琶歌綴り方教室ご参照) 

話は変わりますが、平成十三年頃、弟(現在錦心流全国一水会会長)に誘われ、日本橋公会堂劇場で、ミュージカル仕立ての舞台劇「平家物語2002」を見る機会を得た。私は、緞帳が上がる前、流れ始めた「二十世紀のテーマ」にも似た荘厳な序奏曲に魅せられたのです。音楽を担当されたのは、中島詩元興さん。後日、この「晩生」にシンセサイザーでの伴奏曲をお願いしたら、快く引き受けて頂いた。すばらしい曲がCD(カラオケも含め)になって届いた。主旋律のピアノの音がこんなに能く合うとは驚きでした。それから、2回ほど中島さんの生のシンセサイザーで、コンサートを開く機会を得ました。以来、「晩生」は、私の人生の友になり、手酌酒をしながら、カラオケで晩生を口ずさみ、陶淵明の世界に浸り、悦に入っています。 

曲名は、「晩生」と名付けました。晩生とは、私の造語で「晩年(これからを生きる」と言う意味合いのものだ。私にとって、晩生でいう“田園”は、単に生まれ故郷をさすのではなく、好きな時にいつでも戻れる自分だけの心に秘めたやすらぎの里になりました。