2016年11月24日木曜日

西郷どんと曽祖父と私


924日は西郷隆盛の命日である。この日の夜だけは独り静かに我が敬愛する人を偲ぶことにしている。西郷隆盛の薩摩琵琶歌には、勝海舟が作った名作「城山」がある。もう一遍の秀作は、葛生桂雨(くずうけいう)作の「西郷隆盛」である。いずれも人気のある琵琶歌だ。
誰にでも一人や二人私淑してる人物はいるものだが、特に若い頃の私の西郷好きは度が過ぎているかもしれない。 

彼の人間性、それも50年の生涯そのものが、彼の人格であり、私の魂をゆさぶらずにはおかない。西郷党といってもいい。もし今の世に西郷隆盛を党首とする政党があるとすれば、いの一番に馳せ参じ、旗持ち役でもやるかもしれない。

しかし残念ながら西郷ほどの魅力ある人物は見当たらず、また仮にいたとしても現代の超高度管理社会には受け入れられないのかもしれない。 

私の曽祖父は江戸末期文久の生まれ、古澤文平といった。地元の禄高五萬三千石の飫肥藩(藩主伊東公)に軽輩ながら仕えていた武士であった。私が小学四年の時まで、存命し、本家に行くと、西郷(せご)どんのことを囲炉裏を囲みながら話してくれた。文平爺は白髪でどちらかと言えば無口、囲炉裏の前で背筋を伸ばし端座し、左手は膝に置き、右手で灰をきれいに整えながら、その上に火箸を筆のごとく使い、いつも習字していたのが印象的であった。 

西南の役では、郷里・飫肥隊は約300名が西郷軍に投じたという。文平爺も18歳で参加したが、転戦はせず、主に地元日向(宮崎)の太平洋沿岸の警備にあたったと言っていた。西郷軍が熊本城を攻撃し、植木の嶮を境に撤退を余儀なくされて後、大分経由で郷里宮崎を通り、城山に帰っている。そんなこともあり、歴史上の人物というよりも、なんとなく身近な存在であった。私が、西郷どんに傾倒していったのは、三十を過ぎてからである。その頃は、その人生観に共鳴していた。もとより時代環境も違うし、彼ほどの雅量や実行力に及ぶべくもないが、深く知れば知る程人間西郷の魅力に取りつかれ、凡人のわたしに、一番足りない決断力や、実行力を始め、幅広く人間の生き方というものを教えてくれる。
 
西郷は文政十年の生まれ、西南の役で別府晋介に介錯されるまで、まさに「人生50年」を地で行った。当時、私は、西郷さんとより親しくなるため、彼の略年譜を作り、その右側に年齢に合わせ、自分の略年譜を作り、左右比較できるように一表を作った。隆盛と私では、百十三年の時の流れがあるはずだが、何かこの表を眺めているうちに、二人はタイムマシーンに乗ったかのごとく同じ時に生まれ、同じ日本のどこかで息づき、ちょっと足をのばして,「やあ、やあ」といつでも話ができる存在となった。 

私が中学時代、なんのもつれか、取っ組み合いの喧嘩をしていた頃、彼も近くの村で友人と争って右ひじにケガをした。これがもとで彼は、剣術の方はあきらめ、学問に身を入れ始めている。彼が佐藤一斎の「言志四録」に熱中しこれを手抄したと聞くや、私も遅ればせながら同じことを試み、悦にいった。彼の人生のうちで、明治維新街道を驀進する40代よりも坂本龍馬と図って薩長連合を成し遂げた39歳までが、一番生き生きとしているように思えてならない。 

彼は、31歳と35歳の時に、藩侯島津久光公の言うことを聞かず、二回にわたって大島と徳之島に島流しにあった。37歳の時、朋輩の尽力で赦免されたが、召喚使の吉井友実に向かって「村田(新八)はどうなりますか」と問うた。赦免状が出ていないと聞くや、「村田を残しては帰れぬ」と駄々をこね、別々に流されていた喜界が島に寄港して、独断で無理やり連れて帰った。この時の西郷の心意気を思うとき、その名も奇しき悲愁の俊寛の故事と想い合わせ、私の胸は高鳴り、清風に臥したすがすがしさを何時も覚えたものである。