2016年12月26日月曜日

さざなみの別れ~知盛・治部卿局と友章 


             
六甲三渓、(しゅん)()みなぎり、白雲流れる処赤籏(あかはた)あり。北は山麓、南は海、西、一の谷の屏風岩、(ひがし)(まなこ)を転ずれば、緑は深き生田(いくた)の森大手木戸口と定めたり。

時は、寿永三年如月(きさらぎ)七日(なぬか)、未だ明けやらぬ生田川、(あさ)(もや)の流れ、風を(はら)みて、源氏の軍勢押し寄せぬ左岸(さがん)の東に(かく)(よく)の陣、率いる大将軍(たいしょうぐん)(がま)冠者範頼(かじゃのりより)侍大将に梶原平三景時、東国(とうごく)の総勢、五万余騎。


いざござんなれ、川を挟みて迎え撃つ、平家の総大将、新中納言平知盛卿、副将は、(ほん)三位(ざんみ)中将(ちゅうじょう)平重衡(たいらしげひら)卿、相伴う人々、武蔵の守知章、淡路守平清房、尾張守平清定、都合その勢、五千余騎、 

(素語り①)『各々方、油断めさるな、今朝の敵の動きは、尋常ならず、戦いは一日早まりしぞ、後白河院の使わし和解の宣司(せんじ)偽計(ぎけい)なり。御大将の下知(げち)ぞ、心して(うけたまわ) 

弓手(ゆんで)に、松明(たいまつ)の明かり赫々(あかあか)と、火の粉を散らし縦横(じゅうおう)疾駆(しっく)の伝令武者、声高々に呼ばわったり。

新中納言平知盛は、駿馬(しゅんめ)井上(いのうえ)(ぐろ)にまたがりて、黒き烏帽子(えぼし)(しろ)鉢巻き(はちま)(あぶみ)踏ん張り、立ち上がり、平家の軍勢に、下知致す。 

(素語り②)『皆のもの、去年(こぞ)の夏より筑紫(つくし)を振り出しに、艱難(かんなん)辛苦(しんく)一年(ひととせ)なるも、西国(さいごく)を収めて捲土重来(けんどちょうらい)、この福原の地に戻りたり、この大手口に敵を引き付け、守りなば、山手、能登の守殿通盛殿の軍勢、丹波路を(はせ)のぼり、都へ一気に攻め(のぼ)るべし勝運我にあり、(おく)すな、皆の衆~ 

城郭なして、土塁を築づき、幾重(いくえ)逆茂木(さかもぎ)堅固の陣、「えい、えい、おう」の掛け声は、生田の森を駆け抜けて、はるか(ひよどり)(ごえ)まで届きたり。

暁暗(ぎょうあん)薄墨(うすずみ)流せし朝ぼらけ、大手木戸口の(やぐら)より、源氏の方を見渡せば、人も馬も定かならず・・・。

遠山(えんざん)より明け六知らす鐘の音、(あい)呼応(こおう)して氏のときの声、

と、その時であった、逆茂木をよじ登り、越え来る二つの黒き影、重籐(しげどう)の弓、小脇に抱え、大音声(だいおんじょう)を上げて、 

(素語り⓷)『武蔵野国の住人、河原の太郎私市(きさいち)高直(たかなお)』、

同じき次郎(もり)(なお)」、

生田の森の先陣ぞや~」 

平家の陣営、これを見て、「小癪なるも、あっぱれかな、この大勢のなかへ、たった二人で攻め入るとは、何ほどのことやあらん。まずは捨て置け」と笑って、悠々眺め居たり。

されどこの兄弟、指し()め、引き()め、散々にを射こむ。

「これは捨て置かれじ、今はやむ無し」と、味方の強弓(つよゆみ)、備中の住人真名辺五郎(まなべのごろう)、きりきりきりと引き絞り、ひょう~と放つ。一の矢、太郎の胸板貫き、思わず次郎駆け寄れば、すかさず飛び来る峻烈の二の矢、逆茂木枕に、折重(おりかさ)なりて討ち死にす。

梶原平三(かじわらへいぞう)これを見て、不覚なり、河原兄弟を討たせしは、私党(きさいちのとう)の失態なり。この死を無駄にするな。()()けず、攻め寄せんかな」と手勢(てぜい)五百余騎、逆茂木を取っ払い、打ち寄せたれば、ここに大手木戸口の戦い切って落とされぬ。

両軍、ここを先途(せんど)と戦いて、入り乱れ入り乱れ数を尽くして戦えば、射られ、斬られて死ぬるを知らず、馬は嘶き、血しぶき、飛びて、人馬の死骸(しかばね)、やまの如し。生田の森は、緑染めなし、薄紅(うすくれない)にぞなりにける。

時は移りて、平家の後方にざわめき走る。 

(素語り④)『おお、御大将、ご(ろう)じろ、一ノ谷の方向に煙が

 知盛、はったと振り向けば、

西の(かた)に、黒煙上が、忽ちのうちに大空に棚引きたり 

(素語り⑤)『スワー! あれは、盛俊殿の夢野の木戸口か、はたまた、忠度卿の守りし一ノ谷の西木戸か~、はや、搦め手の義経軍に押し出されしと見えたり』

兵は大いにざわめきて、次第、次第に大波寄せるが如く、敵の軍勢、勢いづけば、味方の兵は、浮き足立ち、東に戦わずして、西に走る。知盛、兵を鎮めれど如何せん、足は宙を舞うがごとし。

(素語り⓺)「やむなし、ここは一旦退き、山手の能登(のと)殿(どの)(みち)(もり)殿(どの)(もり)(とし)殿(どの)と合流すべし、(とも)(あきら)頼方(よりかた)遅れるな~」 

皆の衆、我に続けと馬に鞭あて、山道(やまみち)を急げば、やんぬるかな、すでに、味方の陣は打ち破られ、陣形立て直すすべもなし。今は、磯辺を目指し、活路をみいだすのみと、馬の(かしら)を南に向けて、福原流るる(かる)()(がわ)一気に掛け下らんとするその刹那(せつな)伏兵(ふくへい)(おこ)りて、行く手を阻む。次第、次第に共の武者、はぐれ、はぐれて討ち取られ、残るはわずか主従三騎のみ。馬の吐く息、湯気となり、馬脚(うまあし)重く、ぬかる()を行くが如し。 

(素語り⑦)『ここに、団扇(うちわ)旗差(はたさ)し、児玉党、十騎ばかり、みるみるうちに、姿大きくなりて迫り来る。弓が()()(けん)(もつ)()(ろう)(より)(かた)、とって返し、弓矢を(つが)い、旗差し者を、馬より逆さに射落とせば、それには目もくれず、敵の武者、知盛目掛け、(はせ)よりて、組まんと並ぶところを、「父を討たせてなるものか」と、知章、すぐさま馬を寄せ、割って入るや、むずと組んでどうと落ち、取って押さえて、大将の首を取るも、立ち上がりざま、侍武者に、あえなくも討ち取られた。

監物太郎頼方、これを見て、またその武者を討ち取るも、奮戦やむなし、弓手(ゆんで)(ひざ)(くち)をしたたかに射られて、立ち上がれぬまま討ち死した。

討って討たれるその合間、見届ける間も有らばこそ、御大将、(とも)(もり)(のきょう)は、坂道を一気に(はせ)下り、助け船の待つ(なぎさ)にたどりついたのであった』 

(いそ)()薫る(かおる)駒ヶ林(こまがばやし)、馬を止め、通り越し方を目で追えど、二人の姿、すでになし。

敵は、いよいよ、近づきぬ・・・。我が身さいなむ暇もなく、愛馬、井上(いのうえ)(ぐろ)(たてがみ)()、「頼むぞ」と、声を掛ければ、(くつわ)()(がね)

きりりと噛んで、ざんぶと海に打ち入れば、二十(にじゅう)余町(よちょう)大海原(おおうなばら)残る力を振り絞り、御座(ござ)(ぶね)を目指して泳ぎたり。 

知盛、舩にたどり着き、兄、宗盛卿の顔をみるや、どっと崩れて膝をつく。

(素語り⑧)「兄じゃ、知章にも後れ(おくれ)(そうろう)、監物太郎にも後れ候いぬ。子が、親を討たせまじと、敵に組むのを見て、いかなる親なればこそ、みすみす子の討たれるを見て(のが)くる者あるべきや

人の事となれば、あれこれ咎めるを、我が事になれば、よう命は惜しいものにて候うや。ただただ、恥ずかしゅう候」と(よろい)(そで)を顔に押し当てさめざめと泣かれたり。兄、(むね)(もり)卿も、「武蔵(むさしの)(かみ)が、父の(いのち)に替わられたりけるこそ殊勝(しゅしょう)なれ。腕もきき、心も剛毅(ごうき)で、大将軍(たいしょうぐん)にておはしつる人を」としみじみ慰め参らせて、我が子清宗(きよむね)を振り返り、「知章殿は、今あの清宗と同じ十六(じゅうろく)歳よな」と涙ぐみぬ。 

知章、今際(いまわ)(きわ)に念ずるは、父上、ご無事に()ち行きあれ、太刀を振るえば、(あずさ)(ゆみ)、帰るすべなき明泉寺(みょうせんじ)花も嵐の十六歳、露と消えにし若武者の、(まぶた)に浮かぶは幼き日、共に遊びし母の姿かな。 

治部卿の局は、御簾(みす)の影、(もり)(さだ)親王(しんのう)に寄り添いつ、夫、知盛の姿、(かい)()見て、父を守りし我が子の最期に、嗚咽(おえつ)こらえて忍び泣き、衣の袖やしおるらん

(和歌)いざさらば、涙に曇る浜磯や、想い残して波路たどらん。(月心)

嗚呼、一族の命運掛けて親と子の、共に戦いしその(きずな)
海より深く山よりも、高く(そび)えて一ノ谷、さざなみ寄する須磨の浦、(しずか)(たたず)明泉寺(みょうせんじ)、緑の木々百舌(もず) (了)