2016年11月24日木曜日

大原の里と天台声明~琵琶音曲の源流を求めてそぞろ歩き


かなり以前の話だが、正月休みを利用して妻と京都大原の里に遊んだ。かねてから、琵琶語りの音曲の原点を尋ねて、邦楽の源流となった天台声明(てんだいしょうみょう)発生の地をじっくり歩てみたいという願望があった。正月の混雑を避け、七日、洛北の上流高野川の辺に小宿を取り、翌日朝早めに出発した。そのころは、まだシーズンオフの観光客は少なかった。
「大原は京都の北海道と言われるところで、冬はとても寒いですよ」とタクシーの運転手さんは言う。しばらく車中で揺られていると、山並みがしだいに迫り、今までの天気はどこへやら小雪がちらつき始めた。暖房の効いたタクシーを降りると、寒風が頬を突く。観光客はほんのまばら。まず、三千院の御本尊の阿弥陀様にまず來郷の挨拶をした。入口の石段を下り、石畳の道路に出る。

歩を右にとり、ほんのしばらく進むと、三つのこじんまりしたお寺がある。突き当りが勝林院で左が実行院、もう一つが宝泉院だ。三寺とも声明ゆかりの寺、中でも勝林院は声明の根本道場として中心的存在だった。 

「声明」とは簡単にいうと、お経に節を付けて歌う音声学(経典音楽)だ。梵唄(ぼんばい)とも言う。5,6世紀頃、佛教音楽として、中国より伝来した。平安時代に慈覚大師が、もたらしたもので、「天台声明」として広く知られている。平曲を始め、謡曲、浄瑠璃、清元など邦楽の語り音楽と言われるものは、この影響を受けている。 
 
勝林院の本堂は、開け放たれて本尊の阿弥陀様が木枯らしにさらされている。備え付けられたテープのスイッチを押すと、お坊さんたちの鍛え抜かれた呂律が荘厳に本堂に響き渡る。音楽的に艶やかで若葉より滴る玉しずくにも似た命の躍動を感じさせる。はるか平安の昔から大原の山野にこだまし、それがやがていろいろな日本音楽に溶け入っていった声明、その源流にたたずみ、しばし想いを馳せ、時が止まった。
合唱で流れる声明をバックコーラスに平曲の冒頭の詞章「祇園精舎」の一節を口ずさんでみる。妙に合う。唄は木枯らしのタクトに乗って裏山を駆け抜け、深奥の比叡の山中に吸い込まれていった。しばし忘我の時を過ごし、隣の宝泉院で抹茶をご馳走になり、暖をとらせてもらった。
往時大原は、都人の隠棲の地で、遁世者たちの一種のコロニーを形作っていた。方丈記の著者鴨長明は琵琶好きでも知られているが、伏見の日野山に移る前、後鳥羽上皇の不興を被り、失意のうちに、この草深い里に五年ほど隠遁していた。山々に囲まれ、民家の点在する冬枯れの田園風景、大原の里。日野山の方丈庵で書いたと言われる方丈記を始め発心集や、無明抄などの著作構想をあるいはここで温めていたのかもしれない。

長明も心を癒しつつ、幾度か辿ったであろう山道をしっかり踏みしめ、平曲・潅頂の巻の舞台、西の山の麓にある一つの御堂、建礼門院の寂光院に向かった。