2016年11月15日火曜日

薩摩琵琶 越の山風~河井継之助




(謡出)北越(ほくえつ)長岡(ながおか)東山(ひがしやま)悠久山(ゆうきゅうざん)山の上、(みなもと)(とお)き三河の出、祖霊(まつ)(あお)()(やしろ)は、三つ葉(みつば)(かしわ)紋所(もんどころ)(切)教え伝えし常在(じょうざい)戦場(せんじょう)長岡(ながおか)(だましい)(しの)ぶらん

(大干)時は慶応三年十月十四日、徳川将軍慶喜(けいき)(こう)、時の勢いに抗しえず、ついに大政を(ほう)(かん)す。薩長(ひき)いる西軍(せいぐん)は、錦の御旗(みはた)押し立てて、会津を()たんと決したり。徳川(とくがわ)恩顧(おんこ)奥羽(おうう)諸藩(しょはん)、義のため立つは今この時と、奥羽列藩(れっぱん)同盟(どうめい)結びしも、時の形勢(けいせい)見るにつけ、(そん)王佐幕(のうさばく)いずれに就くや、迷いけるこそ是非なけれ。
(地)此処(ここ)、長岡藩家老河井継之(かわいつぐの)(すけ)(やま)田方(だほう)(こく)薫陶(くんとう)受けて日々事上(じじょう)練磨(れんま)怠らず文事(ぶんじ)を講じ兵を()り、領民の難儀(なんぎ)を思わばこそ、(いくさ)を避けて、中立の独立(どくりつ)藩を志しおりしが、西軍の将、山縣(やまがた)(あり)(とも)は、恭順(きょうじゅん)もせず、軍費(ぐんぴ)も出さぬ長岡藩を、会津の前にまず討つべしと、山道軍(さんどうぐん)を差し向けぬ。
(崩)兼ねて期したる事なれば、軍事総督(ぐんじそうとく)河井継之助、単身乗り込む小千谷(おぢや)の敵陣、藩主(ただ)(くに)(こう)(たん)願書(がんしょ)(ふところ)に、岩村精一郎軍監(ぐんかん)()眼寺(げんじ)にて相見(あいまみ)ゆ。
(地)長岡藩の命運かけて、講和を唱え、理を述べて、戦いを避け大義(たいぎ)をば、全うせんと図りしが、昼夜に及ぶ嘆願も、聞く耳持たぬとにべもなく、小千谷会談決裂す。惜しむらくは、まだ若年(じゃくねん)血気(けっき)にはやる岩村には、継之助の深慮(しんりょ)遠謀(えんぼう)を推し(はか)る、度量(どりょう)と能才いまだなし。
もはや、これまでと、継之助、ここに慶応四年五月三日、奥羽(おうう)(えつ)列藩(れっぱん)同盟(どうめい)の盟約なりて、三十余藩結束す。()長岡武士の誇りをかけて、()(れい)の山河護るべし、官賊(かんぞく)一歩も踏みこませじと、五段(ごだん)梯子(はしご)(そで)(しょう)つけて、北越(ほくえつ)戊辰(ぼしん)戦争の戦端(せんたん)開かれぬ。
長岡城から三国(みくに)街道(かいどう)南へ三里、(えのき)(とうげ)は守りの(かなめ)急遽(きゅうきょ)川島億(かわしまおく)次郎(じろう)を差し向けて、二万に余る大軍を、(わず)か千余の手兵にて
(えのき)(しゅん)(れい)に防ぎ()む。長岡魂今こそ見せよ、獅子奮迅(ししふんじん)にあばれたり、(変調)慶応(けいおう)戊辰(ぼしん)五月(さつき)(やみ)、みそらに月の影もなく、残れる星も鐘の()にみるみる消ゆる暁や、敵の将軍(やまがた)は、峠の上を眺め上げ、攻めあぐねぞ、一首()む。

(和歌)   (あだ)守る、(とりで)のかがり火、(かげ)()けて
夏もみにしむ(こし)の山風   (山縣有朋作) 

(地)(まなこ)を西に転ずれば、西軍の海道軍(かいどうぐん)続々と、柏崎港(かしわざきこう)に上陸す。折から水かさを増す信濃川、ものともせずに押し渡り、長岡城をめざしたり。味方の軍勢、城を枕に背水の陣、寄せ来る敵に立ち向かう。(崩れ)天地も裂けん(とき)の声、此処(ここ)先途(せんど)と戦いしも、衆寡(しゅうか)敵せず、城は無情(むじょう)にも落ちにけり。されど何条(なんじょう)ためらうべき、長岡城奪還(だっかん)の秘策、我にあり。(たちま)(つの)る決死隊、八丁(はっちょう)(おき)潜行(せんこう)敢行(かんこう)す。 

(朗読語り)時は七月二十五日、特別編成、総勢十七個小隊、六百九十人。(たずさ)えるもの、一人銃弾百五十発、兵糧(ひょうろう)の切り餅三日分、泥沼に足を取られた時の備え青竹(あおだけ)一本。合言葉(あいことば)、「誰と問はば、「返す午後七時三番(さんばん)太鼓(だいこ)が打ちならされた。出発の合図である。夜半十時、戦闘部隊が、いよいよ四足(よつあし)(けもの)も背を向ける八丁に足を踏み入れる自然のなした一大沼沢(ぬまさわ)(あし)湿地帯(しっちたい)梅雨(つゆ)長雨(ながあめ)で満々と水をたたえ、(ひざ)(こし)まで没し、中心部は、底なし沼。敵に悟られぬよう明かりは付けず、(まい)(ふく)んで粛々(しゅくしゅく)と、一列(いちれつ)縦隊(じゅうたい)沈黙の行軍(こうぐん)青竹(あおだけ)()き刺し、一歩一歩、足を交互に泥に()込み、引き抜き、また進む雲間(くもま)より月の光が差す。反射的に身を隠す。戦闘部隊が、八丁沖の南端、()嶋村(じまむら)に達したのが、午前三時、総勢渡り終えたのは午前五時、ほんのりと空が白み始めてきた。
、継之助は、疲れを(いや)(いとま)も与えず、直ちに前線の(てき)堡塁(ほるい)めがけて、攻撃命令を発したり。

(崩)突撃命令聞かばこそ、長岡藩兵(ながおかはんぺい)一斉に、ぎらりと白刃(はくじん)抜き放つ、疾風(はやて)のごとく駆け抜けて、
「長岡の人数二千人、城下へ死にに来た。()殺せ、死ねや、死ねや」と吠えるがごとく絶叫し、多勢と見せて、敵の陣地を攪乱(かくらん)す、日頃鍛えし調練(ちょうれん)()、見せるは今この時と縦横無(じゅうおうむじん)切りまくる。まさかの方角より大軍(あらわ)西軍(あわ)てふためき応戦すれど、腰は()わらず、成すすべ知らず長岡の精鋭、一気に、城内に雪崩れ(なだ)込めば敵兵(てきへい)たちまち総崩(そうくず)山縣参謀、西園寺大参謀も、命からがら逃げ出すその(さま)飛び立つ水鳥(みずとり)驚きし、富士川(ふじがわ)故事(こじ)に似たるぞや

(吟詠)痛恨(つうこん)()落城(らくじょう)奪還(だっかん)()期す(きす)    北越(ほくえつ)()(そう)(りゅう)(しゅう)眉堅(びかた)()
(さん)(こう)(ろう)(げつ)八丁(はちちょう)(おき)()渡れば(わたれば)  眼前(がんぜん)(あかつき)()浮かぶ(うかぶ)長岡(ながおか)(じょう)(月心作)

(吟替)あなうれし、ここに長岡城回復す。城下の領民、歓喜して、酒樽(さかだる)割られ、(つわもの)(ども)にふるまえば町家(ちょうか)の娘衆らも輪になって、やれめでたやと、総出で(おど)長岡甚句

(民謡)ハー、エーヤー長岡、(かしわ)()(もん)
     (ハァヨシタヨシタヨシタ)

七万四石(ななまんよこく)のアリャ城下町

イヤーサー、()(こく)のアリャ城下町

     ハー、エーヤーお前だか、左近の土手で

(ハァヨシタヨシタヨシタ)

     背中ぼんこにして、豆の草とりゃる

     イヤーサー、ぼんこにして豆の草とりゃる

(地)されど如何(いかん)せん、薩長軍の精鋭は、(まなじり)決し、恥をすすげと、押し寄せる。被弾(ひだん)空に(つんざ)くその中を、我に続けと継之助、町中(まちなか)駆け抜けんとしたその刹那(せつな)、敵の流弾(りゅうだん)流れきて、左のすねを(くだ)かれぬ。嗚呼(ああ)、無念なり、河井軍事総督ついに倒れたり。急ごしらえの担架(たんか)に横たわり、敵には我が首、渡さじものと、脇差(わきざし)、胸に置き替えて、にっこと笑みて、指揮を取る。敵はいよいよ迫りきぬ。せめぎ、持ちこたえし五日間、もはや退(しりぞ)くも止むなしと、会津(あいづ)を目指し、八十里(はちじゅうり)越え。(きず)の痛み、いやまさり、これほどまではと口(ゆが)む。
“八十里、腰抜け武士の越すところ”自嘲(じちょう)の一句を(つぶや)けば、夏の太陽じりじりと、深手(ふかで)の傷にも容赦(ようしゃ)なく、(うみ)あふれ出て、(うじ)騒ぐ。松蔵(まつぞう)、いっときも離れず世話をやき、ようやく村里(むらざと)に着きにけり。

(朗読語り②)此処は会津(あいづ)領内(りょうない)只見(ただみむら)、ここで八日間、(とど)まり、八月十三日、塩沢村の医師、矢澤宗(やざわそう)(えき)邸に運び込まれた。

「どうやら、わしは死ぬ」

死が旦夕(たんせき)に迫っていることを、松蔵(まつぞう)に告げた。西軍は、すでに新発田(しばた)に本営を移し、刻々と迫っている。一刻の(ゆうよ)(あい)ならぬ。長年(ながねん)献身(けんしん)的に仕えてくれた下僕(げぼく)の松蔵に、
「おみしゃんには、ながながと世話になったでや」
労をねぎらい、万一の時にと、妻が松蔵に頼んでいた遺髪(いはつ)を切らせ、すぐに火葬にする(まき)を村人に集めさせた。

「死んだらすぐに俺を荼毘(だび)に付して、敵には渡すなや」

「旦那様、望みをお持ち下されまし」

松蔵は、はじめて、男泣きに泣いた。

「松蔵!泣くな、これは命令だ」

「は、はい」

「急いで(ひつぎ)(こしら)えよ、(まき)をくべて火をさかんにしろ」

庭先で、湿った(たきぎ)赫々(あかあか)(はじ)けた。松蔵が夜を徹し、(ひつぎ)をこしらえている。障子(しょうじ)()しに、身じろぎもせず、じっとそれを見つめる継之助、時折、痛みがやわらぐのか、口元がかすかに(ゆる)む。

昔、座敷で女たちの三味にのせて、よく歌った、おはこの一節(ひとふし)でも唇に含んでいるのだろうか。

四海(しかい)波でも切れるときゃ切れる、三味線(まくら)でチョイト、
コリャコリャ二世(にせ)三世(さんぜ)”・・・・か           
翌朝未明(よくちょうみめい)、松蔵が気が付いたときは、すでにこと切れていた。
“俺の命も、ちょいと今日切れるよ”とでも、言いたげに、精霊(しょうりょう)流し(ふね)に乗って旅立った継之助の安らかな死に顔だった。

(謡出)秋は葉月(はづき)十六夜(いざよい)に、(こし)山風(やまかぜ)吹き流れ、塩沢陣(しおざわじん)の火は消えぬ。戦いの後、夢のあと、水鳥遊ぶ信濃川、河井(かわい)の水は澄み渡り、君が生き様(いきざま)、いや清く、行く末長く長岡の、 (ほこ)りとなりて残るらん。誇りとなりて残るらん。   ()


(創作にあたって)

本琵琶歌は、原題、河井蒼龍窟(国分武胤編・永田錦心作曲)を下敷きに、創作、文中、一部を勝手に引用させていただいている。なお朗読語りの所は、主に司馬遼太郎氏の峠(下巻)の描写を参考にまとめさせていただいた。現代人にも分かりやすい琵琶歌をとの意図ながら、恣意に走ったところは、ご宥恕をお願いする次第である。

敬愛する泉下の大先輩に心からの畏敬の念をささげつつ。 2016.6.26 古澤月心)