2014年11月10日月曜日

琵琶の歴史19:第五話 琵琶法師と平曲④~明石覚一と当道の世界



室町時代の平家琵琶

 時代は移り、元弘三年(1333)二度に及ぶ蒙古襲来で鎌倉幕府は疲弊し、ついに滅んでしまいました。
 翌年、建武の中興成り、政治は一旦武家より、公家の手に移りました。がそれも束の間、足利尊氏の政権となり、室町時代となりました。天皇家は、南北二朝に別れ、戦乱が絶えませんでしたが、元中二年(1392)、南北朝統一がなりました。
 これより、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱が起きるまでは、室町時代にとって一番平和な時代でした。
  城玄と如一

 当道要集によれば、生仏は弟子城正に伝え、城正は城一に伝え、城一は城玄と如一に伝えた。城一は各派の弟子達の縄張り争いに嫌気がさし、京都から筑紫に帰り、筑紫方(つくしがた)平曲の祖となりました。京都に残った弟子たちの中で、もっとも勢力を張ったのが八坂(やさか)城玄を中心とする『八坂派』と如一を中心する『一方(いちかた』でした。
八坂城玄は村上天皇を先祖とする源氏の系統で久我家の出身です。城玄は、幼い頃失明し寺に預けられていましたが、住職のはからいで城一の弟子となり、城玄は、めきめき上達し八坂流の祖となり、口伝(くでん)で語っていたものを文字に書き残しました。今も『八坂本百二十句』として残っています。
別派の弟子城一は、貴族の出ではありませんでしたが、生きる知恵に秀で、「一方」の祖となりました。その弟子に、巨星、明石覚一が出るに及んで、一方(いちかた)はますます隆盛を極めましたが、八坂流は、衰退の運命を辿るのです。

 覚一と当道の世界  

一説によれば、明石覚一は北関東の下野の国の出で、百姓に生まれ、幼くして失明しました。少年覚一は、琵琶法師となりました。覚一は天賦の芸才にますます磨きをかけ琵琶の腕も相当のものとなりましたが、政治的手腕にもすぐれていました。出身が今をときめく将軍足利尊氏の流れを汲むものとして、身分を作り、延元元年(1336)尊氏が将軍職についた頃、琵琶の全国団体ともいうべき『当道座』を組織し、自分がその初代の総検校になったのです。
これにより当道の座中を創り上げ、明治の当道廃止に到るまで当道600年の繁栄の基礎をつくり、日本社会史の見地から言っても盲人福祉政策面に燦然とその燭光を放っているのです。

覚一が、平曲の名手であったことは、『太平記』に出てきます。

覚一検校が病床の高師直(こうのもろなお)のところに「他の道々の能者」と共に招かれ、平家を弾奏したところ、師直、枕を押しのけ耳を澄まして聴きほれ、同座のものも感嘆の声を上げて感じいったとあります。
 
なかでも覚一の功績は、当道座の結成以外に師匠如一の口伝の物語を文字に書きとめた世にいう『覚一本』を後世に残してくれたことです。八坂本と覚一本はそうたいした違いはなくて、順序や一句の句切り方が違う程度です。ただ違うのは本の量が多く二百句(曲)あります。 

才覚の覚一

更に何といっても見落としてならない覚一の功績は、盲人、琵琶師の地位の向上にあったことです。今までの大道河原乞食の芸人を、当道座で組織化し、貴紳の邸宅まで呼ばれて平曲を弾ずる迄になりました。

覚一は先に述べた通り、高師直のような上流社会の武人や政治家とも付き合いながら、当道座の勢力を伸ばしていきました。もともと琵琶は、雅楽を正統として、平家を語るのは裏芸であり、雅楽琵琶こそ『当道』でした。因みに『当道』とは正当な表芸という意味です。

しかし覚一は座を結成するにあたり、この「当道」を座の名として、使用しました。「当道」といえば『平家(平家琵琶)』をさすようになりました。ここにも覚一の散所・乞食芸人の地位から、社会的地位を押し上げ、勝ち取っていく並々ならぬ工夫と才覚があったと言ってよいでしょう。 

今や、覚一の時代になると、当道の幹部は、誇りに満ち、蝉丸や生仏のころのみずぼらしさは存在せず、全国の盲人を支配し、経済的な地位を不動のものにしたのです。

覚一は建徳二年(1371)、この世を去りましたが、これより応仁の大乱の起きるまでの約百年間、平家琵琶は、隆盛を極めました。寛正三年(1462 )の記録には、当時、京都で六百名近くいたことが記されています。 

当道座

当道座が結成されたのは、その当道式目に「人王九十五代後醍醐天皇の御宇に当道皆座の座上を以て職役と名づく。明石検校覚一其の座上によりて職を号して官位の事を執行(とりおこな)ふ」とあるので、室町初期に成立したものであるとみて間違いないでしょう。この盲人平曲家の組織は
15 世紀の半ばから一方、八坂の両流から妙観派、大山派、その他六派に別れました。近世になり平曲が衰えてきますと、芸能組織としての機能よりも経済的な自助組織的色彩が強くなりました。職階は大きく分けて、検校、別当、勾頭(こうとう)、座頭の四官でこれをさらに十六階七十三刻に階級化しました。

近世の平曲

平曲は覚一の出現以来、流行を極めましたが、やがて室町幕府の将軍の継嗣問題と畠山、斯波両氏の家督争いがきっかけになって応仁の大乱が起こりました。

天下麻の如く乱れ、京都は、焼け野原となり11年の長期に渡って動乱は、ようやく収まりました。戦火を逃れ、琵琶法師も地方へと流散し、平家琵琶は、衰微していったのです。戦国の世を経て天下統一がなされ、江戸時代になるや、琵琶は三味線にとって替わられました。浄瑠璃の発生によって平曲は廃れていく道を辿りはじめました。

次回の歴史20では、江戸期の平家琵琶に触れたいと思います。