2014年11月12日水曜日

琵琶の歴史17:第五話 琵琶法師と平曲② 平家物語の成立」


 時代的背景

養和元年(1181)、一代の英傑平清盛が、没するや、その4年後、平氏は壇ノ浦にて、海の藻屑と散り、幼帝安徳天皇は二位の尼に抱かれ、わだつみのもとへ旅だって行きました。

“おごる平家久しからず”一般大衆の平家に対する怨嗟の声は巷にあふれ、一般大衆は、武力でもって時代の革新を成しとげていく武士集団にたいし新時代の幕開けと映り、期待したのかもしれません


 頼朝は東国武士団の棟梁として、源平の戦に勝利してのち、戦勝の立役者の弟義経と骨肉相克のドラマを挟さみながら、征夷大将軍となるのもつかの間、7年後にはこの世を去りました。次に、二代将軍となった長男の頼家は、三ヶ月も経たないうちに裁判権を奪われ、北条時政と比企一族の権力争いに巻き込まれ、修善寺で束の間の生涯を閉じました。
 
  建仁2年(1203)、北条時政は、三代将軍に実朝をたて、執権(政所別当)に就任し、執権政治をスタートさせます。しかしその実朝も承久元年(1219)、頼家の遺子公暁(くぎょう)に殺され、2年後(1221)に承久の変が起こりました。

西の朝廷の後鳥羽上皇側は、ほとんど抵抗らしき抵抗もかなわず、圧倒的軍事力を誇る幕府軍に完敗、その年の7月に後鳥羽院は、隠岐の島に配流の身となりました。

 ここに北条の執権政治は確立され、北条の政治は、約百年後の元寇三年(1333)、上野(こうずけ)で挙兵した新田義貞に攻め亡ぼされるまで焼く百年間の命脈を保つのです。

 
 ところで前章で触れた鴨長明との関わりの深い後鳥羽院ですが、この配流事件は、長明が方丈記で自ら、“我が心にかなう楽しき住まい”と称した方丈の庵にて、入寂した健保四年(1216)の5年後のことです。まさに人の運命は有為転変、茫漠たる原野に彷徨(さまよ)っているようなもので、何時なんどき、危難に遭遇するやも知れません。最高の権力を掌にしていた後鳥羽院、閑居で静かに生を全うしたと想われる長明、果たしていずれが幸せなのでしょうか。


 ついで話で恐縮ながら、長明が、身を切られるようにして手放した愛器『楽琵琶の手習い』は、後鳥羽院の手に渡って後、その名器の行方はどうなったのでしょうか?消息が気になるところです。

文机談によれば、この琵琶は、長明自ら製作した琵琶で、藤を用いた小振りの琵琶で、撥は黒木で出来ていたとか。これは、後鳥羽院からその師匠であった定輔に下賜され、その後何代かの子孫に伝えられ、後には、東国の千葉常胤・鎌倉執権、北条時頼や宮宗尊親王など時の著名人の所を転々とし、そのうち行方がわからなくなったと伝えています。

 
 平家物語の誕生

 本論に戻して、平家物語はどのようにして生まれ、語られ始めたのでしょうか。

兼好法師の書いた『徒然草』の226段に次のような平家誕生の一文があります。

「後鳥羽院の御代、当時の延暦寺の天台座主であった慈円が、学問にすぐれた信濃前司の行長(ゆきなが)に書かせて、生仏(しょうぶつ)という盲目の法師に語らせたのが平家琵琶の始まり」と伝えています。
 
「この行長入道は、山門(比叡山)のことは、よく知っていたが、東国の武士の源氏のことは余り知らなかったので、東国出身の生仏に、武士に問い聞かせて書かせた。琵琶法師達は、この成仏の生まれつきの声を真似して学んだ」とあります。

この一文にこそ、「平家」誕生のヒントが隠されているように思います。気ままな琵琶演奏家のことにて、恣意に渡る点、平にご容赦願い、もう少し掘り下げて、その誕生に迫りたいと思います。
 信濃の前の国司であった行長は、ある時、後鳥羽上皇に呼ばれて、白氏文集についての討論に参加し、『七徳の舞い』という白楽天の講義で、武人としての七つの徳のうち、二つを失念し、満座の失笑をかいました。
 
 人々から“五徳の冠者”とあだ名をつけられ、自尊心を傷つけられた行長は、学問を捨て、世を逃れていましたが、時の天台座主(てんだいざす)慈円大僧正が、其の才を惜しみ目を掛けて、延暦寺に庇護したのです。
 
 慈円は、彼に場所を与え、平家物語を書かせ、生仏(しょうぶつ)という盲目の法師に語らせたのが平家琵琶の始まりであると書いています。 

 この鎌倉時代中期の兼好法師の徒然草の記述が正しいかどうか学者間にも異論のあるところですが、これを信じてもう少し筆を進めてみましょう。 
 平家誕生の下地

 貴族の支配から武者(むさ)の時代の変革をもたらした大乱の中で活躍あるいは見聞した人々の話は、いろいろなエピソードとして作り上げられ、生々しく口語りに伝わったに違いありません。
 
 しかし、平家物語として形を成すには、その厖大な事件事柄を、歴史小説として編纂した編集者がいなければなりません。はたしてそれは誰なのか。また、平家物語はなんの目的でつくられたのでしょうか。 

  この平家物語の誕生には、平家人を死に追いやった為政者(朝廷と源氏)が、平家滅亡直後に次々起こった天変地異を平家怨霊の仕業と怖れ、国家安寧のために、その鎮魂を目的とし、大きな国家的レベルとして行なわれたということを忘れてはなりません。単に琵琶法師の糊口を凌ぐためのものではなかったのです。

 たとえば、鴨長明が、方丈記を、吉田(卜部)兼好が、徒然草を個人的に著したのとわけが違います。資料収集、取材活動」そして編集作業も、多岐にわたり、一人の力でできるものではありません。現代の出版業務に例えれば、合戦などの聞き取り、古典、公家日記、歴史書や和漢文学資料の収集作業など一人の作家の手中心人物の有能な学者で作家兼編集長の役目のひとがおり、その下に作業を手伝った複数の編集員がいたとしても不思議ではありません。時間と費用を考えるとき、そこには組織の力が当然必要だったことでしょう。

次回(琵琶の歴史18)でこのことに触れたいと思います。