琵琶が響く
道端に半ば埋もれ、かしいだ、小さな苔むした石塔――。無縁の巡礼を葬(ほうむ)った墓であろうか。並んで首の欠けた小さな地蔵尊。
その細い道に沿って竹の疎林がある。
木漏れ日のもと、網代笠,破れ衣の琵琶法師がいる。巡礼の白装束のおんなが、側ですすきをもてあそんでいる。笠はとっている。耳を傾けているらしく、時折すすきは動かない。
琵琶法師 「祇園精舎の鐘、(琵琶を打つ)我が平相國の娘として天子の国母となりしかば、一天四海みなたなごころのままなり。百官悉くあふがぬものや、さぶらひし。清涼紫宸の床の上、玉の簾のうちにもてなされ、春は南殿の桜に心をとめて・・・・」
平家琵琶とは、平家物語の原文を琵琶を伴奏に語るものをいいます。昔は単に「平家」、または「平家琵琶」ともいい、近世からは、「平曲」ともいうようになりました。
平家琵琶は、平家一門が源平最後の決戦場である壇ノ浦で亡びたあとに、平家物語が作られ、それを語るようになったのですが、琵琶を背なに負って漂白の旅をして廻った吟遊詩人ともいうべき琵琶法師は、平家物語成立以前の平安朝にも存在していたのでしょうか。
「私は、経を読み、説法を使ったのが琵琶法師だと考えている。平家物語の弾かれたのが琵琶の叙事詩脈の伴奏に使われた初めだとは思わない。それ以前に『経を弾いた』ことがあったと認められる・・・・・・・・。
平家物語もある点から見れば、説教である。その上目の前に平家の亡んだ様子が、いかにも唱導の題材である。私は、源氏物語の作為の動機にもかなりの分量の唱導意識があると考えているのである」
平安時代の貴族、藤原明衡(ふじわらのあきひら)の『新猿楽記』に京のにぎわいを見物した際に、いろいろな大道芸人を二十余り紹介しているが、その中に『琵琶法師の物語』とあります。物語とあるからには、法師は何かを物語っていたに違いありません。
源氏物語の『明石の巻』では、光源氏が須磨に流されていた時に、結ばれた明石の上と呼ばれる女性の父親が、光源氏をもてなすため、琵琶法師の真似をして珍しい曲を弾いたというのがみえています。内容は書かれていませんのでわかりませんが、“もてなし”が目的であり、多分宮中では聞けない巷の鄙曲(えいきょく)だったのかも。あるいは物語の伴奏とうよりも、独奏曲だったのかも知れません。
これは、多分独奏曲とも考えられますが、大衆向けのエンターテイメント的で肩のこらない語りの入ったものもあったと、小右記の記述からも想像できます。
私の考える語りの発生過程は、説教節ではありませんが、当初、仏教の唱導的話からしだいに、大衆の喜ぶエンターティメントの物語を取り入れて、琵琶を伴奏に語り始めたのではないでしょうか。
この頃は、なんら生活の保障もない時代ですが、逆に、後年の明石覚一検校が当道の制度(後述)などのような座の縛りもなく、比較的自由な行動が許された芸の未分化の時代でしたから、こんなことも十分考えられてよいでしょう。
平安時代の琵琶法師は、神社、仏閣をねぐらにして、寺や道端で藁筵を敷き、ヒビの入った茶碗の投げ入れ銭のチャリンという音を気にしながら、その日暮らしのびわひきの乞食(こつじき)同然の大道芸人と、一方、清潔な墨衣をまとって、貴紳宅に出入りを許され、お座敷で芸を披露し、纏まったご祝儀をいただく琵琶法師がいました。
新猿楽記の実資が見物したのは前者であり、小右記にいう醍醐寺の仁海僧正が、楽しんだのは後者であります。その人の才覚と出自で、琵琶法師の世界でも格差社会がすでに形作られていたようです。