2014年11月11日火曜日

琵琶の歴史18:第五話 琵琶法師と平曲③~慈鎮和尚(慈円)と懺法院(ぜんぽういん)



慈鎮和尚(慈円)と懺法院

 行長を助けた慈円は、時の権勢の実力者である藤原一族の英才、九条兼実の弟でした。兼実は、当時の実相を著した日記の名編、『玉葉』をつづり、慈円は、日本の國初以来の世の中の移り変わりをつづった歴史書『愚管抄』を著しました。兼実は時の天下人(てんかびと)頼朝とも盟友でした。

 慈円は比叡山延暦寺の管主(最高位の僧職)です。その著の歴史書「愚管抄」で、見られるとおり、彼は鎮護国家思想の持ち主であります。

 懺法院は、後鳥羽上皇の御願寺で平家の怨霊や崇徳上皇を鎮める為の祈祷寺として建てられました。慈円がその管主でした。此処で注目すべきは懺法院の供僧として平家一門に縁のある僧侶や説教の名手など賢人と言われる人が多く集まりました、その中に平教経の遺児で律師忠快等もいます。貴賎をを問わず、説教師や音曲堪能の人たちも集められました。これは何を意味するのでしょうか。

 
兼好法師は、徒然草226段で、慈円が、「一芸有あるものをば下部(しもべ)まで召し起きて不便に召させ給ひければ・・・」と記しています。 

慈円和尚は平家物語成立の大スポンサー

 いろいろな状況から推して、この寺が、慈鎮和尚を大スポンサーとする平家物語りの大編纂の場となった事は、間違いないような気がします。平家学者の兵頭裕己氏は、その著「琵琶法師」で
「最も怖れられた保元以後の怨霊で崇徳上皇、安徳天皇、平清盛の滅罪と鎮魂の法会がいとなまれたことであろう」と述べています。

 懺法院は、当初三条の地に建てられましたが、翌年、四条八坂吉水に移されました。その後、平曲流布の担い手である八坂流の祖、城玄がこの地(八坂石塔あたり)に住まいし、門弟が多く集い、大衆がそれを聞きに集まったところでもありました。因みに、明石覚一の一方流は、七条の東市を根城にしています。法然(吉水上人)もここに庵を構え布教し、極楽浄土を願う善男善女が集い賑いを見せました。

 世は末法の時代、従来の貴族仏教(観念仏教)にあきたらず、時の太政大臣、藤原兼実も念仏の法然に帰依し吉水に通ったのです。 

 平家物語の生成とその後の平曲の普及させたところが同じ処と考えるとき、まことに偶然とは言い難く何かそこに地縁の意味が感じられてなりません。
 
 保元平治の乱で平氏が台頭して、平家の天下となり、治承四年(1180)5月、源三位頼政の旗揚げに始まった源平両武士団の闘争は、寿永四年(1185)三月安徳幼帝の壇ノ浦入水によってその終熄(しゅうそく)を告げました。この時代の変革をもたらした大乱のなかで活躍した人々、戦いに敗れ散っていった平家の人の話は、当時の人々のいろいろなエピソードとなって、生々しく口語りに伝えられたことでしょう。

 行長あるいは平家作者と言われている人は、これらをいろいろな人々から取材し、歴史書や貴族の日記から書き綴ったのでしょう。例えば前述した鴨長明の方丈記の中からも、福原への都遷り(みやこうつり)のところや,天災事変(地震、火事など)一部ですが引用しています。

生仏(しょうぶつ)はどんな人物

 ところで、最初に曲節を付け、語った生仏とはどんな経歴の人物なのでしょうか。残念ながら、詳しいことはあまり分かっていません。いろいろな推論がなされています。

 出来上がった物語はもって生まれ美声の持ち主、生仏に語らせました。生仏はきっと天台声明や和讃などの旋律を始め、その当時の語り物、今様、催馬楽の節もとりいれたのかもしれません。当時の生仏の時代の節回しがどんなものだったのか再現するすべもありませんが、あるいは、現代の我々の耳には単調で素朴な朗読調の語り(素声)と現代に残る多様な曲節の集合体ではなく、仏教声明(しょうみょう)のような節が中心のものであったのかもしれません。 

 歌は、白声と呼ばれる朗読調で語る部分と、引句とよばれる節をつけて語る部分に分かれ、その節の中の長い大きな旋律型が口説きとか三重とか拾いとか呼ばれています。琵琶の伴奏も語りと語りの合間をつなぐ簡単なものでありました。

 平家物語は最初から今のような大量のものがあったのではありません。学者のなかではいろいろと異論もありますが、いわゆる『原平家』といわれるが最初の語り本は三巻と考えられています。その後、次第に材料が追加され、種々の異本が出来、六冊、十二冊、十三冊、二十冊になり、さらに二十四冊、三十六冊に増え、ついに源平盛衰記の『四十八冊となったとものと考えられています。 

流浪の琵琶法師

 当時の盲人は、ごく一部の恵まれたものを除けば、人にすがって生きるしかなく、町の通りや神社仏閣の境内に筵を敷いて、物乞いをしていた。盲人でも才覚あるものは、芸を身につけ大道芸人になりました。当時の芸人は、世間から葉、決して立派な職業ではありませんでした。琵琶の芸人(びわひき)が、僧形姿となりことは、彼等の生活にとって便利な物であったのでありましょう。この頃の法師という言葉は、裏返せば、袖乞いの職業を意味していました。平兼盛の歌に、

   四つの緒に思う心を調べつつ

    弾きあれけれど知る人もなし

 というものがあります。大道や家々の軒先で琵琶を弾いているが、誰も顧みてもくれない。当時のうらぶれた寂しいさすらいの琵琶法師のありさまが、ありありと見えるよう出ある。 

平家物語の作者は一般大衆

 琵琶法師は、京における大飢饉と天災、それに源平争乱を逃れ、都を離れ、地方へと分散していきました。京の文化に浴さぬ地方の人々は、この流浪の琵琶法師から都の様子矢戦の状況を聞きました。現代のように情報伝播機能の発達していない当時の人々にとって、旅人や琵琶法師は、貴重なニュースを届けてくれる人たちでもあったのです。

 当時の琵琶法師は、すでに完成していた「保元物語」や「平治物語」などの戦記ものものも語りました。行く先で婚礼にぶつかれば、祝い詞もやったであろうし、今様なども出宴席で謡ったに違いありません。旅先の人々の欲するものは、生きるすべとしてなんでも取り入れていったし、また一般大衆も聞きたいものを遠慮なく要求したでしょう。琵琶法師は、何を一番聞きたがっているか、また喜んでくれるものを貪欲に取り入れて行きました。地元が戦の舞台になったところでは、直接、地元の人から話を仕入れたことと思います。琵琶法師たちはその状況を頭にとどめ、自分の語り物のレパートリーをふやしていったでしょう。

 血を血で争う生々しい戦話は歳を経るごとに風化し、美化され戦さ物語は、一大絵巻として、聴衆の心をとらえるように表現されていきました。こうして琵琶法師は、行く先々で大衆の求めるものを掴み、また、人々から話を聞き、物語を充実していったに違いありません。

 まず、「原平家」のようなものが、当時の行長のような学者で作られ、それに、大衆と琵琶法師が語り、聞きながら、一体となって歳月をかけて増補され、作り上げられた物語であります。

 編集者は、中央の都にいていろいろのエピソードを集約し、文学としての形を整えていった。いってみれば、平家物語は、琵琶法師が琵琶を背負い、一本の杖を頼りにさすいの収集活動を通じて、百年にわたり、諸行無常の仏教思想を根底として、その唱道的役割も果たしながら、平家一門の栄枯盛衰を大衆参加のもとに謡あげた一大叙事詩の口承文学といっても過言ではないでしょう。