2014年11月14日金曜日

琵琶の歴史15:第四話 王朝の琵琶⑤~末法の世の琵琶樂人・鴨長明


 方丈記と長明

 鴨長明はその著方丈記で、“地震,大火、つむじ風、流行病(はやりやまい)の世の不思議(天変地異)を記しています。その修辞語を削いだ、ドキュメンタリータッチの表現手法は、現代に生きていれば、きっと長大一流のルポライターになっていたこと請け合いです。平家物語は、随所にその名文記事を引用しています。


 都は、地割れ、炎は吹き上がり、家は宙に舞上がりました。また大路、路地には到るところ、うち捨てられた死体やと行き倒れ人は幾万とも数知れず、大路や路傍、鴨川は墓場と化し、死体の腐臭は街中に漂い、野犬、腐肉を食いちぎり、カラス腸(はらわた)を啄む光景にも、目もそらす力すら庶民には残っていませんでした。ただ念仏を唱え、来世での安穏を願うのみ。高級貴族すら、築地も壊れ、そのまま打ち捨てられ、修復もままならず、よもぎ這う庭露をうち眺めて、詩歌管弦で現実を逃避していました。

 人々が、とこしなえに平安なれと命名した平安京も、また自ら作りだした矛盾で、やがてくる末法の、カラカラとなるこの世の崩壊の地底の響きに、恐れおののきながら郢曲(えいきょく)や雑芸に酔生夢死していたのかもしれません。
 
 この頃、天変地異のうち続く平安末期に琵琶をよすがに生き、琵琶に執心するが故に地位も捨て、方丈の庵で詩歌、管弦を友としてこの末法の世を眺め、硯に向かっていた貴族がいました。方丈記を著した鴨長明です。

 「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつき消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ため)しなし。世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし」

 おなじみ方丈記の冒頭ですが、琵琶をこよなく愛し、平安末期から鎌倉初期の激動の変革期に悲壮美を漂わしながら、琵琶をよすがに生きた末流貴族の鴨長明の生き様を通じて、本稿『王朝の琵琶』を閉じたいと思いますが、先ずはかいつまんで、彼の生きた時代的背景から眺めて見たいと思います。

長明の生きた時代

 鴨長明は、久壽二年(1155)の生まれ、翌年は平氏が中央での台頭の起点となった保元の乱が起きています。5歳のときに平治の乱、13歳になったとき、平清盛は太政大臣、あるいは清盛の参詣の晴れ姿を下鴨神社の禰宜(ねぎ)を務めていた父、長継と一緒にかいま見たかもしれません。

 十代は平家全盛の世の中でしたが、彼が、二十歳を過ぎて、おごる平家の跋扈(ばっこ)する京の東山の一角に、かすかな暗雲がかかりました。鹿ヶ谷事件です。たちまちに事前露見して失敗、でもこの種火は消えることなく、埋み火として残っていました。

 三年後、源三位頼政がおごる平氏を討つべく、以人王(高倉の宮)を奉じ、旗揚げ。しかし、これも失敗、以人王と73歳の頼政の敗死のホットニュースを知ったのは彼が、多感な26歳(1180)の時でした。  頼政は殿上人、従五位の下の下級家族の長明とでは、身分・歳の違いはあっても、お互いに和歌の道では秀でたもの同士、何処かの歌会で会っていたとしても不思議ではありません。因みに、翌、養和元年(1181)、鴨長明は、十代から詠み、書きためていた青春歌集ともいうべき「長明集」を出しています。

 ところで、『埋もれ木の花咲くこともなかりしに』と嘆じて、自決した源頼政、しかし、これは決して埋もれ木ではありませんでした。この事件を契機に、諸国の源氏が立ち上がったのです。以人王の令旨(りょうじ)のもと、源頼朝を中心に平家追討の狼煙が上がり、東国を始め、木曽山中から燃え上がった炎(ほむら)は、やがて燎原(りょうげん)の火の如く全国に広がりました。

 清盛の死を契機に一気に平家一門は坂道をころがり落ちるように、壇ノ浦で海の藻屑と散りました。長明31歳の時でした。戦後処理の平家の残党刈り、鴫(しぎ)も降り立つのをためらう鴨の河原の悲惨な処刑などの光景を長明は、見聞し、きっと彼なりの諸行無常を感じたことでしょう。

 恵まれた幼少時代から、一転、17歳で父を失い、身の上に様々な不遇の時が続いてたころです。きっと我が身を重ね合わして、ひとしお無情感に身をよじらせたかもしれません。 このころの30代前半の5年間の長明の消息は空白の謎となっています。

長明と琵琶

 さて、彼の生きた歴史背景は、以上の通りですが、今度は、切り口を変えて、琵琶人生にスポットを当て、もう一度生誕の時点から辿ってみましょう。

 長明は、京都の賀茂神社の下社、河合社(ただすのやしろ)の禰宜、長継の次男として生まれました。幼いときから祖母の元で育てられ、和漢に親しみ、その才能を発揮しました。琵琶は、楽所預(がくそあずかり)、桂(かつら)流の中原有安(なかはらありやす)に学び、将来を嘱望され、後継者と目されるほどの名手になりました。和歌は俊恵(しゅんえ)に学び、歌人としてもめきめき頭角をあらわし、後年、後鳥羽上皇の覚えも良く、藤原定家たちと和歌寄人(わかよりうど)の一人になっています。

 五十一歳の頃、万葉風の歌人と云われた鎌倉三代将軍の源頼朝とも鎌倉に何回か下向し、自歌を入集した新古今和歌集を献じています。

 彼は、10代の後半で父を亡くし、親戚の叔父にもうとまれ、念願であった下鴨社の父の禰宜の職を継ぐのも絶たれ、自らを『みなし子』と称していました。あとで、和歌の寄人を一生懸命務める長明を見て、後鳥羽上皇は、長明の思いを知り、その口添えで下賀茂者の摂社である河合社(ただすしゃ)の禰宜の職につく機会が訪れました、

 長明は感涙にむせびましたが、これまた一族の強い反対でかないませんでした。彼は深く落胆し、周囲の反対を押し切って大原に隠遁してしまうのです。この大原の里で五年を過ごし、やかて終焉の地、宇治日野山の方丈庵(一間半四方の四畳半)で方丈記や無名抄、発心集を著します。

 秘曲づくし

 ここで楽書(僧隆円著)、文机談の伝える長明と琵琶にまつわる話をあげておきます。一説によれば、これも隠遁の原因とも伝えていますが、長明が願主となり、糺の森の中の賀茂の奥で当代一流の名の聞こえた音楽家たちを集めて『秘曲づくし』と銘打って、音楽会を催しました。

 会も盛会裡に進行し、長明はよほどうれしかったのでしょう。感激のあまり、師の中原有安から伝授されていなかった秘曲『啄木』を繰り返し数回弾きました。出席者は、別世界に生まれた思いをして聞き入りました。ところがこのことが後で大変なことに発展したのです。

 これを漏れ聞いた、当時の楽所預(がくそあずかり)の藤原孝道は、一大事件にしたのです。粘着的性格の孝道はこのことを後鳥羽上皇にご注進し、抗議しました。曰く、

 「凡天下房(地下人のこと)の仁として身に伝えざる秘曲を偽りて、しかも貴族高人の奥義をはかり奉ることは、これ重き犯罪なり。すみやかにたださるべし」と。

 上皇は、そこまで大事(おおごと)にしなくてもと思っていたふしがありますが、あまりにしつっこい孝道の申立に、一応問いたださざるを得なくなりました。上皇の御下問を受けた長明は、つぎのように弁明しました。

 「確かに音楽会を催して師から教わった『楊真操』の曲を啄木風に演奏したことはあります。人間として生を受け、絃哥の好士たる自分は、琵琶の道にふける志が切なる為、行ったことでどうぞ上皇の叡察によってご判断ください」

 長明は、当時の楽所預、師有安から、楊真操だけは、伝授され、弾くお墨付きは頂いていましたが、他の曲は、伝授される前に、他界してしまいましたので、習わず仕舞いでした、でも音楽の才能に秀でていた長明のこと、日頃の師匠の弾奏を聞いて、すでに習得していたのでしょう。

大原に隠遁ー愛器との別れ 

 この後、長明はどうしたかと云いますと、和歌の共であった源家長の日記によれば、『これに堪えずしてついに、長明は、洛陽(平安京のこと)を辞して修業の道にぞ思いたちにける』とあります。前述の就職の件とこの事件は大原・日野の隠遁を決心する大きな原因となったのかもしれません。

 琵琶の秘曲である『流泉・啄木』は、大唐の琵琶師、簾承武が勅に応じて、貞敏に伝え、我が国に持ち帰ったもの。由緒ある国の宝とも云うべき当道(琵琶)の秘曲ですので、簡単に地下人風情が公の場で弾くことは御法度でした。後鳥羽院も音楽は堪能で、琵琶は良く嗜みました。
 
 後日談ですが、院は、長明が隠遁した後、長明が持っていた名器『手習(てならい)』を家長を通じて所望されました。この琵琶は、長明自ら制作した琵琶で、藤を用いた小振りの琵琶で、撥は黒木で出来ており、名器だった由。きっと素敵な音色を発したのでしょうね。長明は、この自作の『手習』を分身のように愛していたのでしょう。後鳥羽院はといえ、余程渡すのが惜しかったとみえて、琵琶を手放す時にバチに和歌を書き添えて、琵琶と別れる寂しさを、院に送っています。

       かくしつつ、峰の嵐の音のみや
          
           ついに、我が身を離れざるべき 

上皇は、家長に、「返事(かえりごと)をせよ」と命じました。 

      山深く、入りにし人をかこちても
          
           半ばの月を形見とは見ん 

 半ばの月とは、琵琶の異称でここでは、『手習い』のことです。長明は、『手習い』以外に方丈庵の壁に、立てかけた折り琴と継ぎ琵琶を持っていました。 

 「もし、あとの白波にこの身を寄する朝(あした)には岡の屋に行きかふ船を眺めて、満沙弥が風情を盗み、もし桂の風、葉を鳴らす夕べには、潯陽の江を思ひやりて源都督の行いをならふ。もし余興あればしばしば松の響きに秋風楽をたぐへ、水の音に流水の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめんとにはあらず。ひとり調べひとり詠じてみづから情をやしなうばかりなり」

 私の一番好きな方丈記のくだりです。

  流洛の琵琶

 貴人に愛され座右の楽器となった楽琵琶もやがて貴族社会の没落と共に衰微していきました。平家物語の伝える重衡(しげひら)や経正(つねまさ)の哀話を待つまでもなく明日をも知れぬ混濁の世にみやびの心を忘れぬ“琵琶人(びわびと)”もまたあわれです。

 時は下り、平家が亡びて三百年後、足利の世に、応仁の大乱が起こりました。続く戦で、都は、雲雀(ひばり)、飛びかう浅茅が原となり、荒廃ここに尽きました。都からは、琵琶の音も絶えてやがて楽琵琶の時代は去り、平曲の語りの時代を迎えるのです。

      大原の半ばの月を眺むれば、
          
            今を盛りの楽琵琶思ほゆ (月心)

                                               王朝の琵琶(完)