2014年11月15日土曜日

琵琶の歴史14:第四話 王朝の琵琶④~催馬楽から今様へ


催馬楽(さいばら)

平安盛期は、藤原氏の摂関政治が御堂関白道長(みどうかんぱくみちなが)を頂点として絶頂を極め、『この世をば、わが世とぞ思う望月の、欠けたることのなしと思えば』と豪語せしめた時代です。宮中の貴族に仕える女流作家が、きら星のごとく輩出、女流文芸時代を現出しました。

貴族たちは詩歌、管弦にあけくれ、郭曲(えいきょく)の神楽歌、催馬楽、風俗歌(ふぞくうた)朗詠が流行りました。特に、催馬楽は、源氏物語の巻名にもなっています。もともと民間の俗謡が拾い上げられて、宮廷の式楽に昇格し、貴族の間だでも大変な人気で酒宴の席でも大いに謡われました。主に歌い手は男性でしたが、『紅葉賀』では光源氏と女性の源典侍(みなもとのないしのすけが)唱和するところがあります。


彼女は、すでに六十の坂を越したうば桜ですが、内侍所の次官(小上臈)で妙に婀娜(あだ)めいたところがあり、人柄もよく、なかなかの才女で琵琶の名手でした。あるとき、光源氏は、幾つになっても色好みの艶ある彼女に酔狂半分で逢いに行く場面があります。 谷崎潤一郎訳の源氏物語(中央公論社)で、一部紹介してみましょう。

・・・・・(光源氏が)夕立があってそのあとが涼しくなった宵の夕まぎれに、温明殿(うんめいでん)のあたりをそぞろ歩きしていらっしゃいますと、この内侍が琵琶をたいそう見事に弾いているのです。御前なぞでも、男たちの管弦の中に交ったりして立ち勝る者がないほどの上手なのが、心に恨みを抱きつつ奏でますので、ひとしおしんみりと聞こえます。

「瓜(うり)作りになりやしなまし(催馬楽)」と声はたいそう綺麗に謡っていますのが、少し不似合で、気味が悪いのです。・・・・・・やがて弾き止んで、ひどく思い乱れている様子です。君が東屋を忍びやかに謡って、ものに寄りかかっていらっしゃいますと、「押し開いて来ませ」と言い添えたりしますのも、普通の女と違った感じがするのです。

彼女が謡った「瓜作り・・・云々」は白氏文集(はくしもんじゅうに収められているが、下記の文句(一部略)です。

『山城の狛のわたりの瓜つくり  我を欲しといふ  いかにせむ  や  なよや  いかにせむ』

ついでに光源氏と内侍所が謡った催馬楽、『東屋』も紹介してみます。 

『東屋のまやのあまりの、その雨そそぎ、我れたち濡れぬ、殿戸開かせ。

かすがいに錠(とざし)もあらばこそ、その殿戸、我れ鎖(ささ)め、おし開いて来ませ。我や人妻』

岡一男氏の訳で紹介すると、「東屋の突き出ている軒の先から落ちる雨だれに、わしは、すっかり濡れちゃった。早くそのお邸の戸をお開きよ」

「かすがいも錠もあればこそ、わたしがこのお屋敷の戸にかけがねをかけもしようか、わたしは、人妻でもないのに遠慮はいらないよ」
 
忍ぶ恋路とはほど遠い、直球を投げ合うような大胆な男女の比喩的エロチシズムの横溢した相聞歌ですよね。この催馬楽を唐風に琵琶などの楽器を伴奏に謡った・・・。今でいえば、さしずめ、粋なねえさんが、三弦に乗せて、艶物の都々逸を謡う風情の心地とでもいうのでしょうか。

催馬楽とは、庶民の間で俗曲的に流行ったものを、貴族が拾い上げて、垢抜けしたものに音楽として整え、楽器の伴奏を付け、流行らせ、それがまた逆に遊女(あそびめ)や芸妓、琵琶法師などを通して、庶民に環流していったことでしょう。

今様(いまよう)

源氏物語が書かれた西暦1000年ごろ流行った催馬楽も平安時代中期から鎌倉初期にかけて流行りだした今様(当世風・現代の歌と言った意)に取って替わられやがて廃れていきました。今様は七五調の四句形式を基本とする歌で、今までの催馬楽や神楽歌、風俗などの宮廷歌謡にたいする雑芸一般を指していう言葉です(邦楽百科事典)。当初、庶民的でくだけた直線的表現の歌は、当初貴族の宴でも白拍子などが余興のように歌い始めたのを聞いて、やがて、催馬楽のように、本格的に貴族の楽として管弦を伴奏に品格のあるものに整えられていったのでしょう。

鎌倉初期に書かれた平家物語には、今様が出てきます。その一例をあげてみます。
巻の五の「月見」で平清盛が、6月に自分の別荘地であった福原(今の神戸)に遷都した年の8月、徳大寺の左大将実定卿(じっていのきょう)は、旧都の月が見たくて、近衛河原に残り住んでいる大宮(姉で近衛・二条両天皇の元妃・・・平家物語の「二代妃」で有名)を訪ねます。

一夜、大宮をはじめ、”待宵の小侍従”という女房らと、夜もすがら、語りあい、そして旧き都の荒れ行くさまを見て、今様の節で謡う場面があります。

     奮き都に来て見れば  浅茅が原とぞ荒れにける

     月の光は隈なくて    秋風のみぞ身にはしむ

  と推しかえし、推しかえし三返謡いすまされければ、大宮を始め奉って御所中の女房達みな袖   
  をぞ濡らさりける。

また当時の後白河法皇は、あけてもさめても、今様に狂わんばかりに熱中し、傀儡師や遊女から流行っているものを、手あたりしだいに収集し、「梁塵秘抄」を著しました。今その一部が残っています。しかし、一世を風靡した今様も、鎌倉時代の武士の世になると、次第に衰退していきました。

末法の時代

ところで、さかのぼって奈良朝の時代、律令政治が導入され、大和朝廷を支えた畿内豪族たちは、律令官僚に変身し、次第に階級化され、身分化が進みました。平安時代に入るや、年ふる毎に、その口分田などの公地制度も徐々に蝕まれ、私的荘園化していきました。

平安末期にさしかかりますと、殿上人、受領などの貴族は世襲で、地位を独占するようになり、大化改新の理想は色あせ、今や、貴族達は詩歌管弦と恋路に明け暮れる、“手弱女姿(たおやめすがた)”となり、もはや、ありし日の万葉的明るさの気概と活力は次第に失われていきました。有閑階級の華麗と退廃の時代を迎えたのです。