2014年11月17日月曜日

琵琶の歴史13:第四話 王朝の琵琶③~平安貴族と琵琶


王朝時代の区分 
王朝時代とは、平安時代のことを指しますが、桓武天皇が延暦12年(794 )に平安京を定めてから壇ノ浦にて安徳天皇が入水された文治元年(1185)までの約400間をいいいます。平安時代を語るにはその期間を約百年間刻みで初期、中期、盛期、末期の四期に分けるのが便利です。琵琶は文学とも大いに関係があります。
まず初期(794887)の時代は、漢詩文全盛の時代で、白氏文集(はくしもんじゅう)が天長十年(833)に入ってきて、七言詩が流行したのもこの頃です。中期(888986)は、和歌の全盛時代で、紀貫之が古今集を作りました。盛期(9871086)は、国文全盛の時代で紫式部や清少納言などの宮廷上流作家が活躍しました。紫式部の源氏物語は、十一世紀の始め、五十四帳の本格的な長編小説です。末期(10871185)は、貴族の時代が終わり、平氏が亡び、武士が台頭した時で文学では、歴史文学や説話文学が流行しました。歌は世に連れ、世は歌につれと云いますが、琵琶も世の中の移り変わりの中にいろいろと登場し、人生模様の脇役として活躍いたしました。

 本稿の王朝琵琶を綴るにあたり、この4期に分けて、種々の文学や文献から琵琶の系譜を追ってみましょう。 

雅楽

前章で述べた盲僧琵琶は、宗教楽器として我が国に伝わってきましたが、奈良・平安貴族が愛した琵琶は、天平時代かあるいはそれ以前に唐楽(雅楽)として伝来しました。先に述べた正倉院に残る四弦と五弦の琵琶は、その時の遺物です。最初、琵琶は雅楽寮の設置でわかるように宮廷舞楽の雅楽として合奏用として移入され使用されたものです。

雅楽は、当初飛鳥時代に新羅(しらぎ)、百済(くだら)高麗の三韓楽が伝来し、奈良朝時代に唐、渤海、は林邑の諸楽が入り、やがて雅楽は唐楽が中心となっていきました。雅楽の合奏は、管楽器、絃楽器、打楽器からなり、絃楽器のなかに楽琵琶があります。

当初は、直頸の五弦琵琶もはいっていたかもしれませんが、現代の雅楽は四弦琵琶だけとなりました。唐楽は、楽、歌、舞の三つからなりたっています。琵琶の役目は、旋律を奏することもできますが、ほとんど掻撥(かくばち)などのアルぺジオでリズムだけを受け持っています。 

平安貴族と琵琶

平安貴族は、楽器の中でも琵琶をこよなく愛し楽しみました。
宮廷雅楽の合奏だけでなく、琵琶の独奏も楽しみ、興にのれば即興的弾法も行ったに違いありません。

源氏物語絵巻の中にも宿木(やどりぎ)の章で、琵琶を奏でる匂宮(におうのみや)と聞き入る中の宮(なかのみや)があります。また橋姫の章では、琵琶と琴の合奏をする大君と中の宮が登場します。この貴族に人気のあった楽琵琶は平安初期、仁明天皇(にんみょうてんのう)の頃、藤原貞敏が、唐から持ち帰ったと言われています。爾来、貴族の音楽はは当道(琵琶)が中心となり、管楽と舞楽の道は、貴族の必須科目となりました。琵琶のたしなみは、独奏よりも合奏まで出来ることがよいとされていました。めったに外に出ない深窓の姫君達の琵琶の音は、透垣(すいがい)の戸の隙間よりかすかに漏れ響いて、通い来る貴族達の恋情を、いやが上にもつのらせたことでしょう。 

舶来した独奏用の秘曲

三代実録によれば、藤原貞敏は、承和五年(八三八)遣唐使准官となって唐に渡り、琵琶博士、簾承武(れんしょうぶ)より、流泉(りゅうせん・啄木(たくぼく)・楊真操(ようしんそう)などの琵琶の秘曲を習い、翌年帰国しました。その時、玄象(げんじょう)、獅子丸、青山の三面と琵琶譜を相伝され、帰国の途に尽きましたが、途中波風が激しく海の龍神を鎮めるために、獅子丸を海底に沈めたと平家物語は伝えています。それから玄象、青山は、我が国の帝の宝となって大嘗祭などの行事に使用されました。西園寺や菊亭などの音楽の家では、彼を琵琶の祖としています。
 
貞敏が渡った頃の唐は、すでに晩唐にあたりこれから55年後の宇多天皇の時(894)、菅原道真の進言により、遣唐使を廃止しました。平安の春を謳歌し始めた我が国にとって、老大国からも、はや学ぶべきものはあまりなく、国内では、あらゆる分野で和風化が進行していました。琵琶の道も例外でなく、この頃の琵琶譜などにも和風化の兆しがみえます。

遣唐使の廃止から12年後、我が国に大いなる文化を提供し、日本の芸術文化の源流となった大唐は、昔日の面影を異国の平安の都に残映を残しながら瓦解していきました。以上のように琵琶の伝来そのものは、平安時代以前からであるが、貞敏が、琵琶の祖と仰がれるのは、この時代が、民族文化の深まりと共に輸入模品を作り変えていきつつあった時期と見ても良いのではないでしょうか。 

博雅の三位と蝉丸

平安中期は、宇多天皇から花山天皇までの御代を指し、律令政治と班田経済のたがが緩み、摂関政治と荘園経済が確立し不動のものとなっていきます。ますます民族文化が花開いた時期でもあります。この頃、源三位博雅(みなもとのさんみひろまさ)という雅楽家がいます。彼は、醍醐天皇の皇子・克明親王の子で、母は、左大臣藤原時平の女、世に博雅三位(はくがのさんみ)として有名です。彼は、箏(こと)、和琴(わごん)、篳篥(ひちろき)なんでもござれの名人で、特に琵琶については、源修から習い、名手でした。前章にもありましたが、逢坂山に住んでいた蝉丸のもとに夜な夜な三年間通いつめ、三年目に初めて流泉、啄木の秘曲を伝授された話は、今昔物語などでよく知られた伝説でありますが、これは何を物語っているのでしょうか。

蝉丸については中山太郎氏の「日本盲人史」でかなり研究がなされていますが、宇多天皇の子、敦實親王(あつざねしんのう)の雑色(ぞうしき)でした。雑色とは下級職員か、雑務係です。正式には主人から琵琶の手ほどきを受けるはずはありません。多分主人のあやつる琵琶を垣間見(かいまみ)ながら、音を持ち前の音楽才能で盗み取ったのではないでしょうか。最後は盲目となり、逢坂の関にわび住まいをしていたのかもしれません。

博雅三位は、村上天皇の時代の殿上人(てんじょうびと)です。今昔物語では、貞敏が持ち帰った琵琶の秘曲は、敦實親王、亡きあと、蝉丸以外は、弾く者がおらず、このままでは秘曲『流泉、啄木』は絶えてしまう恐れがあるのでお互いに命ある間だに伝授されておきたいと願ったとあります。博雅は、敦實親王から、和琴を習っていたので、秘曲相伝しないままに敦實は亡くなりました。この話は、日本の伝統芸能の相伝継承のもろさを伝えた話としても興味ぶかいものがあります。伝説とは言いながら貞敏が、承和6年(839)に唐から伝えた流風弾法の琵琶は、約百年の歳月を経て、一時期消えなん運命にあったのかもしれません。