2014年11月18日火曜日

琵琶の歴史12:第四話 王朝の琵琶②~唐楽の伝来



唐楽の伝来

我が国の王朝貴族の琵琶は、唐楽の伝来に始まります。白楽天(白居易)は長恨歌の中で、宮中の宴会の模様を次のように謡っています。

り宮(きゅう)高き處、青雲に入り     は、「馬」へんに「麗」と書く)

(せん)(がく)風に翻り(ひるがえり)處々(しょしょ)に聞こゆ

緩歌慢(かんかまん)()糸竹(しちく)を凝らし      

(じん)(じつ)(くん)(のう)()れども足らず 

糸竹の中には琵琶も含まれていました。

仙楽とは、玄宗皇帝の手になる霓裳羽衣(げいしょううい)の曲でしょうか。読者の方に、当時の宮中のイメージをふくらまして頂くために、想像ながら、井上靖氏の小説「楊貴妃伝」から楊玉環(楊貴妃)が玄宗のお召しを受けて、初めて宮中に上がった時の一文を借りて抜粋してみましょう。 

『楊玉環が謁見を賜る時刻は、刻一刻迫っていた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 突然、遠くで楽の音が湧き起こり、それが聞こえて来た。厳かな楽の音であった。権力者と、彼と臥床を共にする女と出会いのための楽の音とは、思えなかった。甘い調べは、何処にもなかった。華やかさもなかった。むしろそれはひどく厳粛であった。

 侍女の一人がやって来て、今聞こえている楽の音は、霓裳羽衣の曲が奏され初めたのであると告げた。霓裳羽衣の曲と言うものをを聞くのは、玉環には初めてのことであったが、この曲の謂われについては、前に誰からか聞いていた。玄宗皇帝が夢で月宮殿に遊び、そこの音楽を聞いて、目が覚めてからそれを思いだして、作曲させたものであるというのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「謁見の時間が参りました。どうぞ、お越しくださいますよう」

 楊玉環は、その侍女のあとに随って歩き出した。楽の音は次第に高くなり、それまでの単調なものから次第に賑やかなものへと変わっていった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 楊玉環が導きかれて行ったのは、昼間玉環が、玄宗皇帝と擦れ違った回廊に面した広間であった。・・・・・・・・・・・・・・・・     

 広間にはあかあかと燭がともされ、昼をあざむくばかりの明るさであった。楽の音はいっそう高まり、笙、鼓、琵琶、拍板、篳篥いろいろな楽器の奏でる音が広間を埋めている』
 

この中で、、霓裳羽衣の曲というのは、皇帝は、西域楽の『波羅門(ばらもん)』を中国風に改作し、中国風の(俗楽)名に変え、霓裳羽衣(げいしょううい)の曲を作ったと言われています。今の日本に伝わる『越天楽』がそのイメージという説もあります。曲を奏しているのは、玄宗皇帝が自ら教えている、右教房か左教房、あるいは梨園の選りすぐりの伎女たちかもしれません。

大陸の音楽の伝来は、公伝では、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の大葬(西暦453)に三韓楽が伝わり、百済の楽人が、来朝しています。しかしこの時は、楽器の中に琵琶は含まれていなかったようです。琵琶(楽琵琶)が、初めて舶来したのは、随・唐の時代を待たなければなりません。ちょっと、専門的になりますが、琵琶演奏家のために、前章で述べた盲僧琵琶伝来の時期は、学者間ではいろいろ論争のあるところです。私は、仏教が入ってきた六、七世紀頃入っていたとしても不思議はないと考えます。ただここでいう楽琵琶(雅楽に使う四弦)や正倉院に残る螺鈿紫檀琵琶のような直頸の五弦は八世紀から九世紀にかけて、遣唐使の復路船などでもたらされました大宝元年(701)、我が国の朝廷に音楽舞踊のの教機関として雅楽寮が設置されました。平安時代雅楽寮に替わって楽所(がくそ)が充実し、一条天皇(9861010)の頃、組織的にも完成した。雅楽寮は次第に楽所へと発展的解消の道を辿りました。