庶民の酒場
東市の隣房に、平康房があります。今で言う花柳街です。高級料亭の旗亭・酒楼には選りすぐりの緑眼・巻髪の若いイラン娘がお酌してくれました。一杯飲み屋の酒肆(しゅし=酒家)もあり、看板娘の青い目の美姫がいます。 奥には、チョットした舞台がつくってあり、琵琶、鼓、笛が置いてあります。そう言えば、酒仙 李白が、『胡姫、貌(かんばせ)花のごとく、瓶(かめ)に当たって春風に笑う』と詠んでいます。
シルクロードの旅してやってきた、ペルシャや、サマルカンドなどの西域の女たちが、酒ガメのそばで、酒も売っています。それを目当てに集まる、銀の鞍を付けた白馬で、春風を渡りながら、落花踏み、踏み、通い詰める五陵に住む少年貴公子たち、エキゾチックな異国の碧眼の彼女(胡姫)たちに思慕の炎を燃やしながら、酒杯を傾ける。そうそう、酒には歌が付きもの。おそらく、西域から隊商に連れられ、売られあるいは、献上された彼女たち、でも少女達は、その悲しさは、おくびにも見せず、音楽好きの陽気さを振りまきながら、酒客に媚びを売っています。
緩やかな五弦琵琶の独奏も弾いたことでしょうが、テンポの速い琵琶の音に乗せて、激しく回転しながら躍る『胡旋舞(こせんぶ)』という円舞の曲がありました、唐の人たちにこよなく愛好されました。楊貴妃も得意だったようです。白居易は、この激しく回転ダンスの様を次のように歌っています。
廻雪飄々、轉蓬のごと舞う 左旋、右轉、疲るるを知らず
千匝万周、已む時なし 人間、物類の比すべきなく
奔車も、輪、緩にして旋風も遅し
この『胡旋舞』の舞いとその調べは、今残念ながら、伝わっていません。
音楽は、当初支配階級の者でありましたが、次第に民間への開放が始まり、前述の平康房の遊里の北里や下級官吏、知識人、富商の娯楽機関が生まれ、そこで管弦・歌曲の遊びが行われました。しかし、この音楽の庶民化は、後の宋の時代になって本格化し、伎館、酒楼、戯場での娯楽が、市民生活の中に溶け入っていきました。
雨乞いに奏された琵琶
琵琶は、雨乞いの為にも、演奏されました。徳宗の貞元年間(785~805)のことです。長安が日照りに見舞われたとき、東市と西市に別れて、琵琶コンクールで演奏較べをやり、雨乞いを呼ぼうと言うことになりました。東の方は、康崑崙(こうこんろん)、西の方は、女性の琵琶弾奏家(実は女装した荘厳寺の僧、善本)、それぞれの市場に楼を組み、同曲を弾かせたところ、先に弾いた康崑崙の時は、何の験しもありませんでした。次ぎに弾いた西の善本の琵琶は、雷(いかづち)のように鳴り響き、入神の出来でした。これに誘われたのか、一天、俄に黒雲現れ、みるみるうちに広がって、稲妻とともに激しく雨が降り始めました。この時、弾かれたのは、『六(りく)よう)』と言う曲です。
唐から舶来した正倉院の五弦紫檀の螺鈿琵琶
このような春の長安を彩る管弦楽が、遣唐船などを通じて日本にもたらされました。同時にソロで弾く我が国で秘曲となった琵琶楽なども入って来ました。
世界で唯一現存している正倉院の宝物である五弦紫檀螺鈿琵琶は、聖武天皇の遺愛の品と言われていますが、松本清張氏は、「あれは、早くから貴族が持っていて、東大寺の大仏開眼法会に使用され、お祝いに天皇家に献上されたものではないか」と書かれています。(正倉院への道・日本放送出版協会)
我が国で作られたのがどうか分かりませんが、おそらく、奈良時代に、遣唐使の舟に乗って唐から運ばれて来たものであろうと思います。
楽器で使用されたどうかは定かではありませんが、新聞記事によると、琵琶の螺鈿細工に琵琶の背面にはめ込まれた二、三センチの貝殻数枚に摩擦痕があり、実際に弦を押さえて引き込まれた可能性が強いというのです。(読売夕刊2008.9.27末尾添付参照)五弦琵琶は、合奏だけでなく、独奏用としても使われました。 (第一話完)