一大国際都市、長安は、その人口100万とも150万とも言われ、異国趣味の情緒に溢れていました。日本では奈良・平安時代の頃です。因みに、日本の都市作りはこの長安が模範です。中国の音楽はこの時代に頂点に達し、特に玄宗皇帝と楊貴妃の時代に、大輪の牡丹の花のように咲き乱れたのでした。長安の街の広さは、日本の平城京の約四倍。白居易は、次のように詠じています。
<百千の家は棋を囲む局に似たり、十二の街は菜を種うる畝の如し>
牡丹の花見頃ともなれば、近郷の見物客も上京し、百五十万にもふくれあがりました。京城東壁の中門、春明門のあたりに、立って見渡しますと、西北に遠く三省六部の甍を並べた皇城が見えます。その北には東内諸宮の屋頭が、竜宮のように浮かび、興慶宮が探訪できます。この宮殿は、歴史的ロマンで名高い玄宗皇帝が楊貴妃と過ごし、朝の政務を怠ったという愛の御殿でもあります
春ともなれば、西南には、朱雀大路に沿う薦福寺の小雁塔が、南の方に浮かび、遙か遠くには、慈恩寺の大雁塔が黄塵の中に薄ぼんやりと影を包んでいます。
人気の西域楽
唐の音楽は、西域楽が人気が高く古来の俗楽に編入されて中心的存在でした。その頃の胡風の流行を伝える旧唐書によれば、「太常の楽は胡曲を尚び、貴人の御饌は、尽く胡食を供し、士女、競うて胡服を衣(き)る」とあります。詩人王建は、「涼州行」で「洛陽、家々胡楽を学ぶ」と詠じているほどです。
大唐の都、長安(今の西安)や副都市、古都の洛陽での「胡風」への心酔ぶりが、いか程のものであったかがしのばれます。
宮中の音楽――玄宗皇帝と楊貴妃の音楽好き
玄宗皇帝は、胡樂(西域楽)をこよなく愛し、唐の礼楽(雅楽)を司る太常寺以外に天子自ら左教坊と右教房を設け、胡楽と俗楽を自ら教授として、梨園の弟子(後述)と合わせ、3000人の宮廷妓女たちを指導しました。唐の天子の中で、最も音楽の趣味を解して、音律に明るかったのは玄宗皇帝でした。皇帝は、西域楽の『波羅門(ばらもん)』を中国風に改作し、中国風の俗楽名に変え、霓裳羽衣(げいしょううい)の曲を作ったと言われています。玄宗皇帝は西域伝来の羯鼓(かっこ)の名手で、楊貴妃は笛・琵琶が得意でした。玄宗皇帝は、好きでない音楽を聴いたときは、必ず他の音楽を聴き、耳を洗われました。名付けて、“解穢(かいわい)”と称します。また皇帝は、太常寺の楽人と教房の妓女から優れた者を数百名選抜し宮城西北の梨園の辺に、教習の機関をつくり、『皇帝梨園弟子』として養成しました。
興慶宮の沈香亭での牡丹の見頃には、玄宗皇帝と楊貴妃が、西涼洲の高級葡萄酒の入った夜行杯を口に含みながら、婉然と管弦の音や、当代一の歌手、李亀年の美声に酔いしれていました。このパーティには、李白も急遽、呼ばれ、酔眼の顔で、楊貴妃を称える即興詩を何遍か作っています。
唐代の宮中では、亀茲楽(クッチャガク)、康國楽(サマルカンドガク)、安國楽(ブハラガク)、高昌楽(トルファン楽)、疏勒楽(カシュガルガク)、西涼楽(セイリョウガク)などの胡楽が人気ありました。
(続きをご覧いただく場合、ホーム画面に戻り、左側ラベル欄の「3琵琶の歴史」をクリックしてください)
(続きをご覧いただく場合、ホーム画面に戻り、左側ラベル欄の「3琵琶の歴史」をクリックしてください)