2014年10月29日水曜日

平曲の稽古風景幻想


  

      祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
              娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す。

今年の7月、杉並区内の大宮小学校で、琵琶の語り聞かせ授業を頼まれ、お邪魔したとき、担任の先生が小学校5年生になると、平家物語の冒頭を声に出して覚えさせているとのことでした。子ども達は暗記するのが早いですよね。

人間歳取ると覚えも悪く忘れっぽくなる。でもお経や歌詞でも節を付けて覚えると意外と忘れにくい。その点平家物語は語り物で、すべてに節がついていますから覚えやすい。

 
 薩摩琵琶は、約30年近くたしなんでいましたが、平家琵琶(平曲)やってみようと一念発起したのは10年前。でも二百曲(平曲では句という)もある平家を実際に語れて、教えて頂ける先生は、片手の指の数ほどもいらっしゃらない。

その中で、日本琵琶楽協会の事務局の方の紹介で、須田誠舟先生の門人の端に加えていただいた。私は生来の不精者だが、それでもなんとか毎週、稽古に通うことを心がけました。やってみると意外にこれが楽しい。下世話に言うと『平曲に、はまってしまった』のです。

平家物語の成立時期は、勿論平家が源氏との戦いで壇ノ浦の水屑と沈んで後、約30年から60年(或いは100年とも)ぐらいかかって現在の膨大な体系が出来たらしい。それが約800年間語り継がれているのです。

なぜ節が残っているかというと、室町時代に明石覚一(あかしかくいち)という平曲の名手が出て師匠の「如一」の口伝を文字に書き留め、世に言う「覚一本」を残してくれたこと。それに江戸時代になり、平曲の中興の祖と言われた荻野検校(けんぎょう)が「平家正節(まぶし)」という本をあらわし、墨譜で節を付け後世に伝えてくれたことが大きい。

昔は今みたいに印刷技術があるわけでなく筆で書き留める写本形式。ところが、写本の写本をするうちに随所に原文と異なった箇所もできる。

現存する写本は幾つかありますが、誠舟門下は、東大国語研究室所蔵の平家正節の『清州文庫本』をテキストとして使用させていただいている。原本は和綴じの本で四十一冊からなっています。

参考までに入門時の頃の稽古風景を少しデッサンしてみましょう。

 須田先生のお稽古場は、銀座で三十畳も悠にあろうかという空間。正面には平家琵琶、樂琵琶、薩摩琵琶などいろいろな琵琶が端然と並んでいます。師匠と弟子が相対して座る。正座が基本ですが、先生は、「疲れたら何時でも膝を崩しなさい」と柔和な眼をされる。

教本は墨で書かれた草書体。縦書きの字の右側に独特の記号のような譜がついています。墨譜といい、これが古来の音符だ。ところがこの音譜が優れものだ。西洋の五線譜と違い当時の京都弁のアクセントが分かるようになっています。当時の琵琶法師は、京都を中心にして活躍していたからです。また琵琶を背なに追い、杖一本を頼りに、諸国を行脚しながら「平家を」語り伝えました。

 「稽古方法は邦楽の伝統的な口伝(くでん)。まず先生が一節ずつ語ります。そのあと、一緒に合わせて語る。それが終わると今度は一節ごとに先ず先生が語り、それを弟子がオウム返しにそっくり真似る。最後に一人でやってみなさいということになる・・・・・・。

初めのころは教える先生も大変だが、弟子も必死だ。

 初めはまず教本の草書体に悩まされます。多少古文には興味のあった私でも、当初はすらすらとは読み下せません。平仮名も、いわば漢字を崩したような万葉仮名に似ています。

例えば「の」と「が」が一緒の形に見える。また写本は筆者独特の筆遣いの癖もあって慣れるのに手間取るのです。

古来の独特の節回しの墨譜(音符)を覚えるのに、ゆうに半年はかかります。「習うより慣れろ」、最初はあまり理屈抜きにそのまま丸暗記気味で覚えていくのが結局近道と悟りました。

教本は、自分で楷書にして清書して作るまめなお弟子さんもいますが、私は、江戸時代の先人が筆写したものをそのままコピーして使っています。当時の先人に直接接し、雰囲気がそのまま伝わるような感覚がたまらないのと自然に草書体に慣れ、読み取れるようになります。一挙両得という訳です。

流れるような美麗の筆字をジット眺めていますと、大木弁庵という武家屋敷の奥医師でもある平曲家が、医事の寸暇を縫って一本の蝋燭のともしびを頼りに、一字一字筆で書き綴っている姿。寝るのも惜しみ精魂込めて、貴重な和紙に向かっているのが目に浮かぶようで、いかにもその労苦が偲ばれます。

「眼光紙背を徹す」とまではいきませんが、その筆字と譜を幾度も舐めるようにたどって、繰り返し「平家」を節を付けて語る。慣れて来るうちに、単なる読み流しの素読とは違い、いろいろな感性と感慨が伝わってきます。墨譜から京なまりの、都の雅の香りも漂ってきそうです。
 
「金田一先生と一緒に、東京大学所蔵の原本を直接見てきましたよ」とおっしゃるわが師匠の話によれば、書き間違いしたところは、白い胡粉(ごふん)を塗り、しばらく乾かし、その上にまた書き直していった跡が随所にかいま見えるそうだ。原本を転写した筆者の付けた句読点や、語りの段落、伴奏を入れたところ、たまに上部に字句の解説。特に歌い込んだ句(曲)は色々入念に書き込んであります。それを見ると遙か平曲同好の大先輩に、直に教わっているような気がして、心からしみじみと親愛の情が通ってきます。

かくして幾百年前の琵琶法師が語っていた節使いそのままに幾たびも語るうちに、心は、はるか時空を超えて、往時の琵琶法師とその頃の口調で会話をしているような錯覚すら覚えるのです。
 
「あなた、月心さんとか言いなさったね」 
「はい」
「そこの歌い方はチョット違うよ。もっとゆったり、包み込むようにね。ほら『こまわしこわりさげ』の後が『おおまわし』の譜になっているでしょう」
「はい」 
「『こわり下げ』から『白声(しらごえ)』に入るところも、そうそう、ここの間が一寸とまた微妙なんだよね。」
「はい、弁庵先生、それにしても先生の頃の節まわしは随分とゆったりだったんですね。現代のテンポは何事も速くて・・・。語りも自然に早口になるんですね・・・」
「ン? テンポ? それは蘭語かね・・・・。言い訳はいいんだよ。あなたの時代のことはよく分からんがね・・・。そうそう、そこの『三重の甲』の歌い方だけど、鶴が天空を舞うような気持ちで優雅に品格を持ってゆったり語るんだよ。今の君じゃ、何年かかるか・・・、まあ、まだ無理もないけどね・・・。月心といういい名前に恥じぬよう、とにかく辛抱して頑張りなさい。
「は・・はい、ありがとうございます。」 
「50句終わったら、秘曲の部分もそのうち伝授するからね」
「はい、光栄です。頑張ります」 
 

いつしか遠ざかりゆく、いにしえの日本人の心の感性に、平家琵琶を通じて触れるとき、
夢か現か、しばし私は時を離れて異次元の宇宙を散歩しているのです。 (完)