古里の琵琶発祥伝説
私は、太平洋戦争勃発の前の年、昭和十五年の年明け早々、宮崎県日南市 に生を受けました。故郷は、昔、飫肥(おび)藩五万三千石の城下町で、殿様は伊東公です。戦国時代は、島津藩と伊東家は領地を争い、一時島津領であったこともあります。その国盗り合戦の薩摩琵琶歌に、「木崎原(きざきばる)合戦」というのがあります。
伊東の殿様の先祖は、伊東半島に領地を持つ源頼朝の重臣であった工藤祐経でした
頼朝は、これを不憫に思って、その子孫を日向の地頭に任じて下向させました。そのとき、工藤の姓を出身地名の「伊東」に改め、頼朝から守護地頭に任じられ、赴任したときから始まったそうです。そのため、我が、郷里には、明治時代までは、曾我兄弟の芝居は城下の芝居小屋に出し物は懸からなかったといいます。
私の母方の祖父は、日南市 の隣村、南那珂郡の榎原村 (よわら)にある榎原神社の神官をつとめ、父方の曽祖父は、文久の生まれで若干十八歳で士族として、西南の役で西郷軍に馳せ参じました。若かったこともあり、熊本に向けた遠征軍、伊東隊には加わらずに、地元での沿岸警備の役目についたと祖祖父、文平ひいじいさんが話してくれたのを覚えています。
城下町は小京都とも言われ、昔の面影を残しています。この城下から北の山並をめざし、少し郊外に足を運ぶと、田園の続く板敷(いたじき)というところに出ます。そこに清閑なたたずまいをを残している大同四年(西暦809年)創建寺伝の懸かっている真景山長久寺という名刹があります。
鹿児島で薩摩琵琶の祖となった盲僧琵琶の本寺となった薩摩常楽院が戦火に遭い、一時仮寺としてこの飫肥の長久寺に移され、一時、常楽院と改号して、先代の故第四十七代の総検校柳田耕雲氏が法灯を護っていた時がありました。長久寺には、飫肥城で弾いていた貴重な古い地神琵琶も何面か現存しています。
この飫肥から東の太平洋に向けて一本路を辿ると、油津に出ます。天然の良港で昔は近海マグロの水揚げで賑わい、「マグロ音頭」という歌が残っているくらい。ここから太平洋沿いに宮崎市 に向け車で二十分くらい北上すると、途中の岬の突端に鵜戸神宮があります。眼下の太平洋の荒波が砕け散る奇岩に囲まれた大岩窟に、本殿がすっぽり入って鎮座しています。ここが盲僧琵琶発祥ゆかりの伝説の地であります。近くに神宮寺という盲僧寺があったとも伝えられています。詳しくは、(これから連載の「琵琶の歴史~第二章 盲僧伝承」をご参照ください)
幼い頃の記憶ですが、敗戦まだ覚めやらぬ昭和20年代の始めの頃でしたが、家族が寄り添って必死に生きていた貧しい時代に、時折乞食(こつじき)同然の遊芸人のたぐいとも言っていい、“びわひき”が、一宿一飯を頼りに村々を尋ねてきました。
村の世話役のふれが廻ると、簡単な夕餉を済まし、もんぺ姿の母に連れられ、それを聴きに公民館に出掛けました。破れ板戸からすきま風がはいりこみ、裸電球のともる粗末な寄合所(公民館)に村人がこぞりました。冬は綿着にくるまって、琵琶歌に一時過ごしました。
その頃はたいした娯楽とてなく、村人は、琵琶語りを聴きながら、一日の畑田の疲れを癒やしました。子どもの私にはどんなものだったか覚えていませんが、後年母の話では、出しものは、「石童丸」などだったと聞きました。そうだとすると、琵琶をやるようになって分かったことですが、私の琵琶の流祖である、永田錦心の得意曲だったと言うことになります。となると、奇しく私が今やっている、薩摩琵琶錦心流だったのかもしれません。きっと旅芸人の素朴な琵琶語りであったのではないでしょうか。
母は、既に亡くなりましたが、生前は琵琶が大好きでした。晩年は、東京に呼び、介護施設に世話になりましたが、時々私の琵琶の録音をイヤホンで、「本能寺」など聞かせると涙ぐんで、途中から大声で泣き出すのが常でした。今から考えれば、その頃は、子ども時代への回帰現象が進み、昔を偲んでいたのかもしれません。