2014年11月22日土曜日

琵琶の歴史9:第三話 盲僧の伝承①~盲僧琵琶の始まりを探る


  倭(やまと)は国の真広場(まほろば)、たたなづく青垣(あおがき)山隠(ごも)れる倭しうるわし。

古事記に出てくる日本健命(やまとたけるのみこと)のくだりの国偲び歌です。私はこの歌の響きがこよなく好きです。まほろばとは真広場のことで、国の最も中心にある聖なる庭の意だ。国偲び歌の当時は、三輪山の麓の平野を指したのでしょうか。


大和三山に囲まれたこのまほろばに大和朝廷をうちたて、全土に覇を唱えたころまでの倭の国神々(くにつかみがみ)は、底ぬけに明るかった。

仏教思想にさらされていない我が倭は、自然そのものが神であり、信仰の対象でした。古代インカ・エジプトがそうであったように太陽という輝ける恵みを根本神(天照大神)としていました。古代の先祖は、自然を愛し祖先を敬いました。太古から聳える大樹があれば、しめ縄を張りその生命に驚嘆し、神の宿り木として崇めました。山の奥深く分け入り鎮座する苔むす大岩をを見つければ、神の在(おわ)す台座として聖域にしました。自然は人間にたいし生きるための慈しみの神であり、怒れば、大津波・地震のように到底抗う(あがらう)ことのできない荒ぶる神として恐れ、おののき気をもんだのです。一木一草、一岳一石にいたるまですべてが神となりました。まさに仏教渡来以前の古代の宗教は、自然教と言っても過言ではありません。生活も自然と同座しました。歌垣(うたがき)に代表されるように若い男女のつき合いも現代の我々からみるといかにも一見非道徳風に見えますが、現代の釈儒をはじめとする倫理的思考の呪縛を一度解き放ちますと、何とも大らかで素朴な風習でした。

六世紀から7世紀にかけ、このような絵具をとる前の白紙のキャンバスにも似た土壌に仏教は伝来し根を張りました。 

宗教あらそい 


仏教の歴史は、そもそも、インドの古代宗教とを土台として、種々の異教と同化しつつ、その神を主神として遇し、あるいはまた諸神を仏法守護の眷属神として配置し、排斥せずに重用しました。受け入れ側の日本の神々も異国文化の一つとして面映ゆげに仏達を快く迎える寛大さを示しました。最も快くという言い方は、短期間でとらえれば、多少語弊があるかもしれません。

日本書記にいう。欽明天皇七年(五三八)百済國の聖明王が金剛仏像と経倫若干を献上しました。その後、時の権力者間で外来の宗教を受け入れるかどうかで国論が二分しました。蘇我稲目(そがのいなめ)の崇仏派に対し、物部尾興(もののべのおこし)、中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、我が国の国神(くにつかみ)は外来の神を拝めば、怒りを招くとして廃仏を主張しました。これが半生紀の後、その子の時代になって激変の時が到来するのです。

物部守屋(もののべのもりや)は、蘇我馬子(そがのうまこ)に殺され、二百年に渡って栄華を誇った物部一族は亡びました。推古二年(五九四)三宝興隆の詔(みことのり)が発せられ、ここに仏法は国教化され、国家鎮護と衆生救済の使命の道を歩むことになったのです。

このような時代的背景のなか、宗教祭具としての盲僧琵琶は、何時、どのように

我が国に渡来したのでしょうか。 次の盲僧の伝承で、仮説・伝説も含め、「盲僧琵琶」の伝来に迫ってみたいと思います。 (続く―盲僧琵琶伝承②~盲僧はいずこへ)