2014年11月20日木曜日

琵琶の歴史10:第三話 盲僧の伝承②~盲僧はいずこへ



地神盲僧(ぢじんもうそう)縁起

薩摩淵源禄等によれば、欽明の御宇(ぎょう)に大臣(おとど)の子である遊教霊師(祐教礼子=ゆうきょうれいし)は11歳の時で日向の国宇渡(鵜戸=うど)の窟に流され、岩窟住まいをしていたが中国から来朝した盲僧が彼に地神陀羅尼経と土荒神の法とあわせて宗教琵琶の妙音曲を伝えたのが始まりと言われています。

明治三十八年(1905)、天台宗務庁から地神盲僧にあてて出版された「地神盲僧規制」の中から「起源及び由来」を少し堅くなるが原文で紹介してみましょう。 


『地神盲僧派、往昔仏滅後、百年の後、印度阿育王の王子と倶薩羅太子妙音菩薩(ぐさらたいしみょうおんぼさつ)に琵琶の秘曲を授かり金光妙堅牢地神神品を持誦(づしょう)し、弾琴誦経(だんきんづきょう)三昧行(ざんんまいぎょう)を修し、不有三身の覚体を得悟し、止悪行善不懐無作の妙行に始まり、桓武天皇延暦二十三年、高祖伝教太子入唐求法帰唐後、開祖玄清法印、満一阿闍梨の徒を率い、これに二三部灌頂及陀羅尼読誦印契の秘法を授く。玄清法印は、筑前三笠に成就院を創立し、満一阿闍梨は、肥後の託魔に惠大寺、日向諸県に長久寺、大隅曽於に来乗寺、薩摩阿多に長嶋寺を創立し、弾琴誦経三昧の弘道場と為し、而して、諸国を回歴し、民を利済し、大いに斯道を顕揚し、斯道を相承し、以て永く治国利民の法徒定め、師資相承して、大いに精華を加え、以て今日に至れり』 

この中に出てくる玄清法印は、筑前盲僧の祖であり、満一阿闍梨は、薩摩盲僧の祖とされている。仏教公伝は538年が定説ですが、およそ、民間では、もっと早く大陸から伝わっていたのかもしれない。 

大陸音楽の伝来

 大陸の音楽は、5世紀から9紀にかけて、つぎつぎに移入されました。大和朝廷は、百済政府より音楽家を貢上され、欽明天皇十五年(554)2月には、百済の音楽四人が前任者と交替するために来日したと日本書記は伝えています。この時の百済の楽器は、箜篌(くご・注:ハープ)、莫目(まくも・注:竹の縦笛)、六孔(ろっこう・注:よこぶえ)の三種で、百済楽には含まれていません。

 琵琶が初めて日本に渡来したという公の記録は、類従三代格の大同四年(809)3月31日太政官符に雅楽寮の楽師の員数を定めることで、「唐楽師十二人のうちに琵琶師」というのが見えています。雅楽寮とは、雅楽を司る官庁で、大宝二年(702)、大宝令(たいほうりょう)によって制定されました。ここでいう琵琶は、楽琵琶です。盲僧琵琶は、仏教の宗教音楽である声明などと一緒に、宗教楽器として6世紀頃、伝わったのではないでしょうか。

盲僧琵琶とお経

 近代琵琶の源流となった盲僧琵琶は、古くは、笹琵琶と言って胴が長く、三弦六柱でした。これが、我が国に上陸して、どのような道を辿り、今に伝承されたのか見てみたいと思います。

 現在、盲僧琵琶は、筑前盲僧(玄清法流)と薩摩盲僧(常楽院)に大別されますが、一般的に盲僧琵琶は、琵琶を伴奏として地神経を謡い、土荒神の法竈払(かまどばらい)を修するものです。地神経とは、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の中の第八品(ほん)にあり、堅牢地神(けんろうぢじん)という女神と、仏の対話です。堅牢地神とは、大地をよく堅固ならしめるいわゆる母なる大地であり、我々に恵みをもたらす大地への感謝と祈りのお経です。また、盲僧琵琶は、弁形の仏像がよくありますが、もとは河川を神格化したもので、印度(インド)では、吉祥天(きっしょうてん)と共にもっとも尊崇された女神。
 まさに盲僧琵琶は、大地と大河の大自然との結びつきによって構成されたといっても過言ではないでしょう。

 母なる大地は、万物生きとし生きるもの、生命存続の元であり、大河は、慈雨を集め、いつも満々と絶えることなく、ゆったりと蛇行しながら流れる命の水。大地と河(水)と琵琶!何と、雄大な取り合わせでありましょうか。

 金光明経は、我が国に538年に初めてもたらされた経典です。この最も早く伝来した御経に説かれている地神経と琵琶が、堅く結びついているのも、また因縁であり、興味深いものというものでしょう。現代に生きる我々は、土の匂いを忘れ、この大地(地球)への祈りをとかく忘れているような気がいたしてなりません。 

薩摩盲僧琵琶の起源

薩摩盲僧は、筑前の玄清法流に対し、常楽院系統です。常楽院は、当初萬正院といい、相坂山(大津市街の南)にありました。開祖は、萬正院(満一阿闍梨)で、後で正法山妙音寺常楽院と名前を変えました。常楽院は、十二世紀末に薩摩の地に移ることになるが、現在は、日南市飫肥にある長久寺が、一時常楽院に改称して、故四十七代柳田耕雲氏がその法灯をまもっていました。(今は、鹿児島の方へ移された)。

常楽院の第四十五代大検校、江田俊了が、昭和七年に著した『常楽院沿革史』によれば、四代院主として蝉丸法印をあげています。蝉丸は、琵琶の名人と言われて、謡曲にも登場しています。今昔物語や江談抄によれば、素性は、宇多天皇の皇子式部卿敦実親王の雑色で琵琶を良くし、盲目となってから逢坂に草案を編んでいましたが、源三位博雅が、毎夜ごと、三年も訪れ、ようやく流線・啄木の秘曲を伝授してもらったとあります。伝説的には、これが盲僧琵琶の始まりと言われています。
 
筑前盲僧琵琶の起源

 盲僧琵琶は、天台宗と深い関わりがあります。筑前盲僧の起源は、桓武天皇の時、九州筑前の盲僧、橘玄清に始まると言われています。彼は、今の福岡太宰府の近くの寺で琵琶を弾じ、地神陀羅尼経を読誦していましたが、最澄が、比叡山中に大霊地を発願した時、登山し、造営の妨げである多くの毒蛇を祈祷により退散させました。

 その功によって天台仏説宗の名称を允許(いんきょ)されて成就院の院号を授けられました。その後、彼は、叡山を下りて、筑前に戻り、成就院を建立し、地元や近國の盲僧たちを指導したと言われています。成就院は、その後、筑前を中心とした玄清法部盲僧の本寺となり、現在、近代筑前琵琶へと脈流をつないでいます。

 
薩摩盲僧の起源は、12世紀末と言われています。 平家一門が、長門壇ノ浦の藻屑と消えた翌年の文治2年(1186)、源頼朝が,その庶子島津忠久を薩摩、大隅、日向の三州の守護職に任じた時、島津公は、頼朝の命で下向の折、この宝山検校を祈祷僧として連れて行きました。

この時、常楽院の本尊である妙音天を捧持したため、相坂山の常楽院はこれを期して移転することとなり、中央の地神盲僧の舞台は、一転して京の都より薩摩に移ることになりました。

 最初の薩摩の地での常楽院は、建久七年(1197)、日置郡吹上町中島(現在の鹿児島県吹上市)に建立されました。

ここに九州南部の地神盲僧は、ここを本寺として、薩摩盲僧琵琶の手厚い庇護のもとに他国とは比べものにならない好環境のなかで息づき、今日の近代薩摩琵琶に改良され、進化していくのです。これについては、後稿の『近代琵琶』に譲ることにします。 

 カトクドンとカドザッツ

 薩摩では、藩士の中で、琵琶を弾奏することを慣わしとしましたが、この士族の子弟で盲目の者が選ばれて盲僧になりました。

 彼等は、『カトクドン(家督ドン)』と呼ばれ、薩摩藩は、門割り制度で、檀家を割り振りました。常楽院盲僧たちは、春秋二回から五回、村々のの檀家を廻ってお祓いをし、布施米をもらって、収入源としました。

この点、決して豊かとはいかないまでも、定期的な収入が約束されました。一般の琵琶法師とは、全く異質の保護された身分の者たちでした。 常楽院に属していない盲僧は、『カドザッツ(門ザッツ)』と呼ばれていました。彼等はカトクドンと違い、収入保障はなく、自分の芸を売りながら、門々でお布施を乞いながら生活していました。

村々に一人ずつ居たカトクドンは、頭の上に、布施米の詰まったザッツブクロ(座頭袋)をのせて、高下駄を履き、杖に鈴を鳴らしながら、一家の安穏五穀豊穣を(あんのんごこくほうじょう)祈って廻る風景が見られました。

琵琶は、地神琵琶あるいは、胴が細長いので笹琵琶ともいいました。盲僧たちは、この笹琵琶を弾じながら、加持祈祷を行い、地神経、荒神経(竈祓い=かまどばらい)や般若心経を唱えました。昔は、カトクドンが五百軒以上の檀家を受け持っていた時もあったそうです。

この点、薩摩藩以外では、門割りの制度もなく、恵まれていませんでした。流浪のその日暮らしの遊芸琵琶法師も数多くいました。盲僧達はお祓いが終わると、檀家の囲炉裏端で芋焼酎を勧められて、余興で琵琶語りをやったこともあるでしょう。

非業の最期を遂げた英雄の鎮魂歌は「崩れで」滑稽ものはチャリといいます。 

肥後琵琶

前にも述べましたが、筑前を中心に北九州、中国の盲僧は、成就院を本寺とし、南九州の三州は、常楽院を本寺とし、天台盲僧派に属し、いずれも戒律を受けた僧職でですが、肥後琵琶に関しては、この二派には属さず,受戒得度した僧職とは言えないようです。肥後琵琶の『菊地くずれ』は有名ですが、これだけ語ると、家に火災があるなどの“不思議”があるというのであるのであまり口にしたがりません。また肥後琵琶では、チャリという笑い話を余興でよくやったそうです。

常楽院系統の盲僧の位には、大検校(だいけんぎょう)、勾頭(こうとう)、法橋。、権法橋、入位(従弟)がありあります。入位から権法橋になるには、七年、勾頭から、検校になるには、十年かかりました。玄清部成就院では、大徳判眼、法橋などの位号があります。 

細作

日本盲人史を著した中山太郎氏によれば、薩摩では、島津氏が代々盲僧を『細作(しのびのもの)』に使用していたと言っています。16世紀頃、島津忠良・忠久が、薩魔、、大隅、日向の三州統一のため、琵琶歌にある木崎原合戦(きざきばるかっせん)に代表されるように日向の伊東と国盗り合戦に明け暮れていた時は、祈祷行脚の盲僧を使って聞合役(ききあわせやく)というスパイ行為をさせていたことは事実のようだ。薩摩盲僧が、出身が武家であることからも恰好の敵情視察の裏方制度として利用されたのでしょう。 

当道派との葛藤

近世に入り、地神経や竈払いの荒神経を唱える盲僧の他に、平家琵琶を表芸とする琵琶法師がいました。当道とは、室町時代以後、時の幕府によって、公認された職業的盲人の治外法権的な職業団体です。初めは平家琵琶の弾奏家に与えられた特権で職屋敷という統括管理の官庁があり、その最高権力者が職検校(総検校)でした。それを久我家が管領(かんれい)しました。彼等は、平曲、箏曲、三弦、鍼灸(しんきゅう)按摩(あんま)などで生計をたて、技術審査と上納金で官位を授けられました。

徳川時代になると、特に九州地区の地神盲僧派の勢いが強くなり、本来の宗教家としての活動以外に平曲や、「くずれ」などの遊芸も行うようになりました。上納金を収め、官位を得、芸を職業としている当道派()にとっては、死活問題、面白い筈がありません。放置しがたい摩擦が各地で起こりました。徳川幕府に保護を受けていた当道は、すべての職業的盲人を支配していました。そこで、幕府の権力を背景にその他の盲僧まで支配下に収めようとしました。盲僧派は当然反発しました。でもその抵抗もむなしく幕府の採決は、当道派に有利に下ったのです。

延宝二年(1674)、当道の総検校の訴えにより、地神盲僧達は、すべて官位、院号、袈裟衣を停止されました。一乗院の下書文書の資料によれば、『もし、これを破る不届き者があれば、五十日間の入牢を申しつける』べき旨の領主宛の文案が残っています。

これにより、100年の間、盲僧派は、伝教以来、許されてきた権利を剥奪され、屈辱と忍従の時代を過ごすことになるのです。その間、中央に対し、数多の請願を行っていましたが、天明三年(1783)、ついに天台宗青蓮院宮(しょうれいいんのみや)に嘆願、心血をそそいで盲僧一派を世に出すべく図ったのが筑前琵琶の初代の父、真定その人でありました。

そもそも延宝二年の事件は、当道派と九州の盲僧との公事(くじ=訴訟ごと)でしたが、この過酷な沙汰は、全国の盲僧に及んだため、特に大和地方の盲僧は、寝耳に水のことで、痛手であったろうと思われます。その後、次第に勢力を弱めることを余儀なくされ、衰微の道を辿っていったことは、想像に難くありません。

しかし、この事件も、南国の雄藩、薩摩においては、がっちりとした島津家の保護のもとに影響を受けませんでした。門割り制度により、収入源が確保されていたからです。

時代は降り、文明開化の明治八年に、天台宗官庁の所轄にはいりましたが、その間、明治3年(太政官布令により、隻眼・晴眼の琵琶法師廃止、続いて、明治五年(1872)ついに盲僧制度は、公には廃止されました。 

盲僧は、いずこへ

盲僧が使っていた元の三弦六柱の笹琵琶は、はたして大陸からもたらされたものなのか、はたまた、日本盲僧の改良により創られたものか、それはいつ生まれたのか?盲僧琵琶の歴史の流れを訪ねるロマンは尽きない。
 
しかし世は変われど、ただ、ひたすらに幾星霜、琵琶を弾じ、地神陀羅尼経を唱え、五穀豊穣と生活安穏を祈ってくれた盲僧たちや、また近代琵琶の源流となった笹琵琶は、今やうつろいとほろびの風物の点景として幻の彼方に飛び去っていった。

近年まで、縁日の十月十二日は、わずかに残った地神盲僧の末裔たちが、年に一度各地から鹿児島の中島常楽院本堂に集い、開山法要を営み、妙音十二楽の音(ね)を奏でていた

近在の実りの秋の畦道を渺々と縫うがごとく、這うがごとく、静かに響き渡っていたあの音色は まだ聞けるのであろうか。

よつの緒(お)に、神のこころを調べつつ
   盲(めしい)の僧の読経(どきょう)かなしも (月心) 
合掌