「源平合戦は、今で言えば、太平洋戦争にも勝るほどの日本あげての未曾有の、いわば、その時代での大乱でありました。平家物語には、一言でいえば、『その乱世にあって、人間がその救いを求める道はあるのか』というテーマが一貫して流れており、それを物語を通じ、繰り返し説かれているのが平家物語なのではないのでしょうか」と。
『経正都落ち』の稽古をつけて頂いていた折りの談話ですが、N先生の話につづいて、師匠曰く、
「たとえば、『経正の都落ち』でもそうですが、平家の公達が自分の命以上に、この琵琶を残したいという心、そういう非常事態にあって命だけが生き延びればいいんじゃないかというのではなくて、経政にとっては、『我が朝の重宝を戦場で田舎(でんじゃ)の塵にしてはならぬ』と、国宝とも言うべき名器の琵琶『青山』を、守覚法親王のもとへお返しすると言う人間として成さねばならぬ生き方が、この段で言えば「経正がもとめる道」で、平家物語の作者は、この乱世の中にあってこれから死出に赴く人間に対し、救いを求める一つの生き方として描いたのではないのでしょうか・・・」
先生続けて、
「これとよく比較されるのが、薩摩の守忠度なんですね。彼は、武勇の士でまた歌人としても有名ですが、勅撰和歌集がそのうち編纂されるであろうと言うことを伝え聞いていました。俊成は当時の和歌集の編者、今で言えば編集長なんですね、その藤原俊成卿の邸に、都落ちの時、途中から引っ返して、自作の歌を記した巻物を一巻あずけました。『勅撰集の編纂の暁は、是非一首なりとも載せていただければ、自分の面目これに過ぎることはない』と言って、懇願して西海の戦地に赴くのですよね。これも忠度への救いなのかもしれませんね」と・・・。
後日談ですが、俊成は忠度が一の谷で討死し、ようやく戦乱収まって後、勅撰和歌集を編纂する際、忠度が預けた数ある中から、特に秀歌と思しき一首だけ、朝家にはばかり、“詠み人知らず”として、載せてやります。
『さざ波や、志賀の都は荒れにしも、昔ながらの山桜かな』
経正・忠度二人の行動は、それぞれ、命は無くなっても大事なものを残して置きたい。別の視点からとらえれば、それは一つの「芸術文化」を残していく考え方、ここでは、偶々音楽楽器であり、和歌という文学であるわけですが、命以上に大事な価値ある文物(美)を残すという文化意識と責務感に繋がるのではないでしょうか。
これも乱世の中にあっての作者が願った「救い」だったのかもしれません。平家物語は、我々日本人にこれを示唆しているような気がします。
琵琶法師は、諸国を行脚しながら、単に極楽浄土への仏教の救いだけでなく、おそらく、あわせて 無意識に、このこと(美を残す救い)を庶民に語り、伝えていきました。
“命は、地球よりも重い”といった人がいます。勿論これも大事なことですが、でもいつか、なくなる儚い命が最大の価値ではなくて、こういった文化に対する大切な心というものを子々孫々に残していく―これも貴い生きる道であると平家物語の作者は伝えたかったのかもしれません。
ところで、これも師匠からの話です。生前金田一晴彦先生が、この経正と忠度を比較しておっしゃるには、
「私は、この二人どちらも好きですが、特にと言われると、経正ですね。忠度は自分の和歌を残したいという思いがあったのに対し、経正は、国宝とも言える文物を残そうとしました。その経政の自分の為ではなくて、その文化を守ろうとする無私の行為がたまらなく好きです」と。
最後に、私のついで話で恐縮ながら、平曲「経正都落」最後の方で、法印行慶が仁和寺で幼いころから共に過ごした経政を、一人桂川まで見送り、涙を流しながら、一首謡って送ります。
『哀れなり、老木、若木も山桜、遅れ先立ち花は残らじ』
私はこれを琵琶で語るとき、行慶が幼いころから可愛がった自分よりはるか年若の経正に対し、優しい心遣いを見せるその心情にほだされ、いつも、しんみりとし、弦の音もしめりがちです。