2016年11月16日水曜日

「鴨長明」の追っかけやって25年


「ワタシ、○○さんの大フアンよ」
いい年をしてというと怒られそうだが、全国を股にかけ、追っかけをやっている人たちがいます。皆さん、浮き浮きと本当にたのしそう。あるテレビ番組が、自分の孫のような人気歌手の地方公演で、開場待ちしている初老の奥様方へマイクを向けていました。「これ私たちのささやかな息抜き!彼の公演中、主人なんか眼中にないわ」彼女たちは青春しているのです。画面変わって、彼女の留守宅の旦那へインタビュー。「旦那さん、独りほっとかれて、淋しくないですか」
「仕方無いやね。ハシカみたいなもんや」店の品を並べながら苦笑していました。

 形は違いますが私も似たようなもの。鴨長明の追っかけをやって25年になります。違いと言えば追っかけの対象が今から800年前の人というぐらい。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の冒頭で始まる方丈記の作者です。彼は、詩歌管弦に長け、当時一流の文人で、歌人、素晴らしい琵琶奏者の音楽家でもありました。でも私が彼の大フアンになった理由はそれが主な理由ではありません。

一言で言えば、彼の「人間くささ」と晩年、出家しても俗界に未練たっぷりで、「悟りきれない弱さ?」みたいなものを発見し、悦に入ってるのです。

彼は一七歳の時に、父親を亡くしました。父親が下鴨神社の一番偉い宮司さんでしたが、三十四歳でこの世を去りましたた。それまで、何不自由もなく暮らしていたのですが、親無しの孤児になったと嘆いています。裕福で偉大な父親がいなくなり、周囲の人情が次第に剥がれていったことに対する不満で、甘えの方向を見失いそうになったためかもしれません。

深窓に育ち、どうも同年代の友達にも恵まれなかったようです。当然、後を継げると思っていた宮司の職(正禰宜)は父の又従兄弟に移り、父の遺志に反し、二度と彼には回ってきませんでした。これが終生トラウマとなってつきまとうのです。父を亡くして、

「すみわびぬ、いざさは越えん死出の山、さてだに親の後を踏むべく」と詠んでいる。父の死によって、いまや行くところは山里ではなく「死出の山(あの世)」だといっているのです。

これを、いさめて、「あの世ではなく、この世で親の生き方を習ったらどうなの」という意味の親しい鴨輔光が忠告の和歌を送っています。どうも最近の逆境(例えばイジメ)に弱いひ弱な子ども達に似ているような気がしませんか。

でも死出の山を越えたのは、還暦を過ぎた六十二歳でした。私はこんな長明を追っかければ、追っかけるほど親しみが湧くのです。時を越えて、われわれの現代に通じるものを持っています。

「なに現代に通じる?そんな古くさい人の何処が面白いんだって?」 

「いや、いや読者諸子よ、まずはほんのすこしお手を休めて、しばし私のフアンたる所以(ゆえん)をお聞きあれ」

彼が生きたのは、昔学校で習った「いいくに(一一九二)」つくる源頼朝」とライバル平清盛の源平の戦さの頃といった方が分かりよいかもしれません。彼の生涯は丁度、貴族の世から慈円の言う武者(むさ)の世に変わっていった激動の時代(平安末期から鎌倉時代初期)の額縁にぴったりはまるのです。私はこの約六十五年の変革の時代を鴨長明の立場で歴史を眺めるのが癖になりました。私自身が鴨長明になりきるのです。

例えば、こんな具合です。

『長明(そして私自身)が二十九歳の頃、京は木曽の義仲が攻め入って来る噂で持ちきりでした。私は和歌作りに没頭し、つとめて平静を装っていました。旧暦七月、平家は自分の屋敷に火を一斉に放ち、せみ時雨も止まりました。

安徳帝を奉じて都を捨て西国へ遁れて、世情不安は極度に達しましたたが、私は都に踏み留まりました。心はおだやかではありませんが、務めて平静を装いました。平家の屋敷町、六波羅あたりは一面焼け野原となり煙が未だくすぶっています。私は、なるだけ近くまで行って見ました。浮浪者が薪に売るのか燃え残った板切れを集めている・・・・・・。七條坊門南の市姫の社あたりまで足を延ばすと、もはや市のにぎわいはなく、物が消えています』
 その現場に入り込み、鴨長明という目線のフィルターで、歴史を眺めると、カメラをズームアップしたように世間レベルで世相がかいま見えます。袋の辻の痩せこけた野良猫の眼のくぼみまでくっきりと私の眼に飛び込んでくるのです。巷の庶民の怨嗟の声もマイクロフォンで拾えるから不思議です。

長明は、一流の文人ですが、徹底した現場主義者でした。今なら腕ききの新聞記者になっていたかもしれません。履き潰したわらじが山となるほど見て、確かめて端的にレポート(方丈記)に纏める(もっとも書いたのはずっと後の事ですが)。安元の大火や治承の辻風、養和の飢饉は20代の時、三十になってすぐの元暦の大地震などの記述(方丈記)は圧巻。例えば養和の飢饉の時などは京都中を歩き回って一条から九条までの路で餓死している者、四万二千三百余と報告しています。さながら災害現地からマイクを握って報告しているような臨場感があります。

清盛が、治承四年に都を福原(今の兵庫)に移したと聞くや、すぐに飛んでいき現地の様子を「古京はすでに荒れて新都はいまだならず」と名コピーを書いています。鎌倉まで足を延し三代将軍、源実朝にも会いに行っています。とにかく貴族の出にしては足腰は強く、身軽な性格なのです。

また彼はなかなか手が器用で稀代の工夫家で、現代に生きていたら、さぞかし結構金儲けがうまかったのではないでしょうか。彼が最後に棲んだ方丈庵はいまでいう移動可能な1DKのプレハブ住宅です。家の材料は、大原から、大八車二両にのせて来たが、すでに「組み立て住宅」にしつらえてあります。柱・桁の継ぎ目ごとに掛け金を使って取り外し自由、何時でも移動可能になっています。

キャンプカーとバンガローを組み合わせた手軽さ。大きさは僅か方丈(五畳半位)。これなら急げば一日で組み立てられ、すぐその日に夜露をしのぐこともできるのです。費用は車賃ぐらいのものだと自慢しているのですから。

こよなく愛し、いつもそばに置いていた手作りの琵琶も継ぎ琵琶にして、竿の部分が取りはずしできるようになっています。琴も半分に折れるように折琴にして持ち運び易くしていました。

晩年、うららかな日には、よく庵のある日野山の峰によじ登って遙かに京の古里を未練げに懐かしがっていまする。最後までやっていることが出家者らしくない。独り静かに硯に向かって、歌論をしたためている長明とはまたひと味違ったものが発見できます。そこがフアンたる私にはたまりません。

今年の若葉のころ、念願だった宇治に近い日野山の草深い旧庵跡を尋ねました。