2016年8月23日火曜日

片雲の旅人 松尾芭蕉~奥の細道 深川~平泉編



片雲の旅人・松尾芭蕉~おくのほそ道 深川~平泉編        

「芭蕉という名を口にするとき、私どもは、何かしら日本人の心のふるさとといったなつかしさがあります。奥の細道の旅は、今から約325年前の元禄2年に行われました。

彼はこの前後にも旅から旅で過ごしました。44歳の時、「笈の小文」の旅をするにあたってて詠んだ、“旅人とわが名呼ばれん初しぐれ”の句があります。

芭蕉は、生来虚弱体質で、痩身の体に鞭打ち、乞食行脚の漂白の人生を送りました。私の芭蕉のイメージは、奥深い峠の道端で谷間からの吹上げる風に、楚々と揺れ、今にも折れなんそこはかとない純な花にも似ているような気がいたします。


清貧を常とした乞食俳諧の旅、ただひたすら自然を愛し、向き合い、俳諧の数奇につき動かされて、その道に生きる。自らを乞食の翁と呼ぶ素寒貧の生活ながらも、しかし彼には親しい門人がおり、折に触れ支えてくれておりました。

草庵生活の一句上げてみましょう。

“暮れ暮れて、餅を木霊(こだま)の詫び寝かな”

餅つく杵の音を聞きながら餅を食っている夢でも見ているのでしょうか。しかし私には「餅買う金もない侘しい生活だが、そのかわり心は誰にも縛られない自由な、侘びの俳諧の道があり、その”侘び“こそが私の楽しみですよ」と言ってるようです。(勝手な私見で失礼)

ここで因みに彼の生活ぶりと旅行の携帯ものなどの様子を素描してみましょう。

出身は伊賀、江戸では弟子の好意で深川の庵に住しました。草庵は、江戸の門人で有った漁商、鯉屋杉風の生簀の番小屋でした。家財道具は、句会の時にだす茶碗が十個、一本の菜っ葉切り包丁、それに五升入りのひょうたん。これは、門人たちが折々持ってきてくれる米櫃がわりでした。家の前には好きな芭蕉の木を植え、自ら芭蕉と号しました。自ら綴った「芭蕉を移す詞」のなかに、“風雨に破れやすきを愛すのみ”とあります。芭蕉という木は、一見強そうですが、強い風にさらされるとすぐズタズタに破れてしまうひ弱さ、若いころ、武士を捨て、故郷を捨てた挫折の人生、自らの半生を回顧して、「ついに無能無芸にして、この一筋にきわまる」と書いています。また旅行の携行用具のことを伊賀の門人に宛て手紙では、短冊100枚、飢(かつ)えたるとき、五銭に代なすものか」とあります。短冊に何か書いて一枚5文で売る積りだったのでしょうか。後の文言で、「鉢の子(托鉢の鉄椀のこと)・柱杖、これ二色、乞食の支度」とあります。無一物の乞食の旅を覚悟していました。しかし実際は、全国の門人たちがいろいろと旅先で助けたようです。

奥の細道の行程は元禄2327日、深川を振り出しに、千住まで船で行き、そこから陸路となります。足だけが頼りの紀行で、日数150日、最後は大垣で、旅程600(2400キロ)、持病持ちで、疝気(せんき)、いまでいう胃痙攣のようなもの。痔疾(じひつ)それも出血をともなう走り痔であったようです。5か月に及ぶ長旅はこたえました。それゆえ、常々健康には人一倍気を使っていたようです。

紀行文の飯塚泊りのくだりでは、「その夜、飯塚にとまる・・・夜に入りて、土座に筵を敷いて、あやしき民家なり。・・・夜に入りて、雷雨しきりに降りて、臥せるより漏り、蚤・蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消え入るばかりになん(注:意識不明になるほど)」とある。その難儀の程がうかがえます。

ここで、ちょっと硬くなりますが、おくのほそ道の構造について触れてみましょう。俳人の長谷川櫂氏の「おくのほそ道・筑摩新書」から引用させていただきます。

おくのほそ道はその行程から四つの部分に別れています。その区切りは、白河の関、尿前(しとまえ)の関、市振の関という昔の関が境界になっており。ここにそれぞれ異なる主題があります。

1部(江戸深川から蘆野まで)・・・旅の禊

2部(白河の関から平泉まで)・・・歌枕巡礼

3部(尿前の関から越後まで)・・・宇宙的な世界・太陽と月

4部(市振の関から大垣まで)・・・浮世帰り(かろみ発見)

今回の文学シリーズは第1部と第2部を取り上げますが、蕉風と言われる俳諧精神の

「不易流行」と「かろみ」の蕉風の二大主題は、この「おくのほそ道」の旅を通じて、確信的テーマ発掘の旅となったのです。すなわち、太平洋ルートで「歌枕」を尋ね、帰り日本海ルートで「かろみ」を見つけます。(歌枕は口頭で説明)

ここで簡単に、二つのテーマに触れてみたいと思います。

<不易流行の精神>

不易と流行は、一見相矛盾する課題のようですが、尾形仂氏はこう述べています。

『古典と言われるものが、時間の浸食に耐えて、永遠に私どもの心を打ち続ける、その芸術性の不変性、永遠の価値というものはどこからくるのか、自分の携わっている俳諧という芸術にいかにして永遠性を実現することができるのだろうか。芭蕉は旅をしながら、俳句を作り、いろいろ思索し、考えた結果、時々変化してやまないことこそがこの宇宙の不変の本質なのだと認識し、詩人としての務めは、常にたえず詩心を新たにして、対象の真実の生命を発見してゆくことだと。』

<かろみの境地>

「かろみ」は芭蕉が晩年の最大の課題として行き着いた境地と言えます。

反対用語で、「重み」があります。平泉を頂点とした前半では、一章一章が長くかつ重々しい筆致ですが、随所に旅路の険しさと前途への決意を強調する文言があります。

ところが、奥羽山系を旅したころから、いろいろな憂き目に逢っていながらも、旅の困難さや、決意を訴えるものは影をひそめます。短い文章の早いテンポで、たたみかけ芸術的身構えを捨て去り、人間同士の日常的付き合いの中から生まれた詩情をまるで日常会話のような言葉で表現する、いわゆる“かるみ”の境地へ到達したのです。

芭蕉と琵琶

芭蕉が、自ら弾いて琵琶を楽しんだという記述は、見渡りませんが、平曲をよく知っていたということは間違いのない事実でしょう。

それは、今回の琵琶歌で取り上げた「片雲の旅人」の門人の等窮宅で厄介になり、そのあと福島に出て一泊したとき、琵琶法師が琵琶で語る奥浄瑠璃を聞くくだりがあります。元禄2年(1689)と言えば、江戸幕府開幕より約半世紀以上が過ぎ、世の中の落ち着いた時でした。仙台地方は、藩の庇護もあり、天正以来、琵琶法師が、琵琶を弾き、語っていました。

語りの内容は、「牛若東下り」、「餅合戦」などがあります。芭蕉は、その時何を聞いたのでしょうか。枕元でかしましく(うるさく)、聞こえたとありますので、決して上手とはいえなかったのでしょうが、“辺土の遺風”として、格別に感じ入ったようです。このとき、芭蕉はこの「奥浄瑠璃を平家(平曲)にあらず、舞(幸若舞)にも、あらず」とその違いを書いています。当時は五代将軍綱吉が、杉山検校に江戸の両国・一ツ目に広大な敷地(三千坪)を与え、関東8カ国の盲人を束ねるため、惣録屋敷をおくことを許した頃です。深川の芭蕉庵から両国はごく近所、琵琶法師の行き来は、ごく普通の風景で、きっと平家琵琶も聞いていたのかもしれません。
以上
参考引用文献 おくのほそ道を語る(尾形仂)

       おくのほそ道を読む(長谷川櫂)

       奥の細道解釈の基礎(塚田義房)