とどめおかまし大和魂 (松陰)
(大干) 時しも安政五年卯月の末つ方、彦根の城主、井伊直弼は、大老職におさまるや、幕政のたがを引き締めたり。老中間部詮勝は、大老井伊の命を受け、急ぎ秋口に上洛し、梅田雲浜、橋本左内、主なる浪士、矢継ぎ早や、卍ともえと召し捕りて、弾圧峻厳を極めたり。今将に安政の大獄吹き荒れぬ。
(中干) 此は一大事必ずや、松陰先生にも咎、及ぶべし。師を慕う塾生の面々は、日夜、監視を強めしが、幕府を憚る萩藩は野山獄に押し込めて、徳川の息を伺うも、ついに幕命下りたり。
(素声) 「吉田虎次郎に詮議の趣これあり。急ぎ江戸藩邸に出頭させよ」と、
(地) 明日はいよいよ江戸送り、(中干変調)笹打つ雨音、野山獄、(下)獄舎を預かる福川犀之介、せめて一夜の名残をと、夜半密かに牢より出して、杉家に籠を急がせぬ。
(吟変) 心づくしの風呂を炊き、我が子を待つや母お滝、背中を流し、ただぽつり、「必ず生きて帰れかし、短慮はならぬ」と諭しなば、子供に返りし寅之助、落つる涙を止めえず。赤貧の薫陶、父百合之助、鉄拳の学習、叔父文之進、畠で兄と高らかに父に続いて四書五経、過ぎし思い出尽きざるも、やがて明け六つ、別離の刻限、目頭押さえる妹に、「すぐに帰る」と慰めれば、梅雨の雨脚また繁く、軍鶏籠の身となりぬ。
満天の梅雨覇城の暁 千里単身檻興に上る (松陰作)
(地) 古里、萩を後にして、南へ下れば三田尻街道。見えつ、隠れつ門下生
やがて大谷畷のはずれ、観音橋の橋たもと、一本の老松生え立ちて、人呼び、別れの涙松
、(変調)青細引きの網籠越に、(下)煙雨に煙る萩の方、しばし望みて目を閉じぬ。
、(変調)青細引きの網籠越に、(下)煙雨に煙る萩の方、しばし望みて目を閉じぬ。
帰らじと、思い定めし旅なれば、
ひとしお濡れる涙松かな (松陰作)
思い起こせば、佐久間象山、師となして、同志、宮部鼎蔵と、狂になろうと誓いたり。
(崩れ) 我れ、戎を攘う気概あり。、虎穴に入りて、虎児を獲る。憂国の情、いや迸る。
(崩れ) 我れ、戎を攘う気概あり。、虎穴に入りて、虎児を獲る。憂国の情、いや迸る。
(中干)折りしもあれや、下田の沖に、黒船 再び来航す。今こそ決行の時来る。
(大干)時は嘉永七年弥生の末、闇に紛れて、下田の沖合い目指す舟一艘、(崩れ1弾き)
(中干)供は金子重之助、解き放ちたる着物の帯で外れし櫂を結わいつければ、
(崩れ2) 沖風いよいよ吹きつのり、波は唸り逆巻きぬ。飛沫上がりて舟揺動す。
(崩れ3) 千秋万里漕ぎ行けば、ようやく黒船見えたりき。(崩れ4)
(中干) 血豆潰れし鮮血の両手の拳突き上げて、天地神明、八幡菩薩もご照覧あれ、至誠の心只一筋に、東航を請い願えども、時に利あらず、(変調) 応え、つれなき返り波。嗚呼、寄る辺なき身の笹小舟、時の流れに漂いぬ。
(地) 早や重之助今は亡く、我は吟味の伝馬牢、(中干)されど我が志、堅固なり。
後事は同志に託しなん。
時に安政六年神無月、(下)三十路の春秋一期とし、今従容と刑につく。
親思う心にまさる親心、
今日のおとずれ何と聞くらん。(松陰辞世歌)
(あとがき) 吉田家の家紋は「クワのうち卍(まんじ)」、西の方では、クワは瓜のこと、例、美濃のまくわうり。密航の時、松蔭先生は、周囲の人に迷惑を掛けぬよう配慮し、瓜中万二(くわのうちまんじ)と名乗った。琵琶歌中の漢詩は、野山獄中で江戸行を知らされ、犀之助にお礼に、急ぎしたためたものだが、時間がなく後半部分は、あとで作って江戸から送ると言って獄をでた。未完と聞く。江戸行きがいかに慌ただしかったかが忍ばれてならない。ちなみに奇しくも我が家の家紋も「まるに左卍」である。出来得るならば、松蔭先生心残りの未完の漢詩(転結部分)を完結したしと願うは、我れ愚者の浅慮なるや。 t (月心)