時しも、寿永四年三月二十四日の卯の刻に、豊前(ぶぜん)の国、田野浦、長門(ながと)の国壇ノ浦にて源平の矢合わせとぞ定めける。
瀬戸の内海、まだ明けやらぬ、串崎の沖を眺むれば、萬珠、干珠の島中を西へ西へと突き進む、闇間(やみま)を抜ける兵船(ひょうせん)の群れ、これぞ判官義経(ほうがんよしつね)の、率いる源氏の戦船(いくさぶね)。平家の軍に挑まんと、紀伊の国の住人熊野の別当湛増(べっとうたんぞう)を始めとし、伊予の国の住人河野四郎道信も合力し、併せて総勢三千余艘。
平家の軍勢は、過ぐる如月十九日、屋島を落ちて彦島にて、急ぎ兵船を立直し、軍議を凝らして備えたり。いざござんなれ、敵、出陣の報伝わるや、夜半に彦島を発進す。
新中納言平知盛卿を、大将とし、副将は平家一の強弓(つよぶみ)、能登守教経(のとのかみのりつね)、先陣は、山鹿の兵藤次秀遠(ひょうどうじひでとう)の精鋭、五百余艘、続いて、松浦党の剛の者、三百余艘、平家の公達、二百余艘で三陣に続きたり。
春まだ寒き長門の風に、平氏の赤旗打ちなびかせ、赤間が関をすべり行く。春色彩る田野浦に、平家の総勢千余艘、舳先をそろえて陣を敷く。早や、東雲(しののめ)に、海鳥鳴きて、波は朝日に輝きぬ。白旗、霞にたなびきて、源氏の軍船(ぐんせん)、対陣す。間(あわい)、僅かに三十余町、決戦の鏑矢(かぶらや)は、放たれぬ。進撃の法螺貝、攻め鼓、矢音、諸声、櫂(かい)も折れよと漕ぎ寄すれば、舷(げん)は、激しくぶつかりて、互いに猛々し声戦(こえいくさ)。
弓弦(ゆんずる)鳴りて遠矢飛び交い、組んずほぐれつ組打ちて、紅白分たず入り乱る。(崩れ3)漕ぎ手討たれし、兵船は、逆巻く渦に巻き込まれ、風車の如く廻りたり。
はじめは、平家に分(ぶ)がありしが、陽も正中にさしかかれば、潮(うしお)は、止まりて静まりぬ。やがて流れは、向きを変え、漲(たぎ)り落ちる激流となる。判官義経、この機とばかり、「待ちに待ったる未(ひつじ)の下刻、いざ全船に伝えよ。」と小旗を振らせて伝令すれば、源氏の軍船我先に、早汐に乗って、突き入ったり。
かかりける時、阿波の四国勢、心がわりして源氏方につく。智盛、これをうち見やり、「やんぬるかな。阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)、相国入道(しょうこくにゅうどう)の恩を忘れしか、いざ、雑兵原(ぞうひょうばら)には、眼もくれまじ、めざすは、判官の首(こうべ」)のみぞ」と声を限りに叫びたり。
平家の荒公達(あらきんだち)、教経は、将坐に座して,莞爾と笑い、「末期の水よ」と土器(かわらけ)に、なみなみ注ぎし菊の酒、口に含むや、杯(はい)投げ打ちて、九郎何処(いずこ)と切りこみぬ。
夕陽、西に傾けば、勝敗の黒白(こくびゃく)明らかなり。平家の兵船、算を乱して散らばれば、空から落葉(おちば)、ぶり撒きて磯辺に寄するごとくなり。生き残りたるもの、海路(うみじ)を逃れんとすれば、潮(しお)叶い難く、長門の岸に上がらんとすれば蒲(がま)の冠者(かじゃ)の兵、今は、落ち行くすべも無し。波に揺蕩(たゆと)う迷い舟、入りなん落日海を染め、平家の趨勢、今は、最期と見えたりき。
『東を望めば 巌島、西を拝せば彼岸の浄土。
女房、公達ともどもに両手を合わせて祈りける』
二位殿は、主上(しゅじょう)を抱き奉り、練袴(ねりばかま)の股立(ももだち)高くとり、船端(ふなばた)にぞ進みける。
幼き君、御年八歳、御容(おんかたち)も麗しゅう、御髪(おぐし)も黒うゆらゆらと、潮風に靡き参らせて「尼前、何地に行くぞ」
問われて涙はらはらと、「君は、万乗(ばんじょう)の主(あるじ)と生まれさせ給えども御運すでに尽きさせ給いぬ。西方浄土の来迎(らいこう)に預からんと思(おぼ)し召せ。浪の底にも都の候(さぶろう)ぞ」と小さな御手(おんて)を合わせさせ、千尋(ちいろ)の海へぞ沈み給う。
嗚呼(ああ)、無常の春の風、ただ見る波の花白く、漂う平家の印旗(しるしばた)、波路に止むるも悲しけれ。